『論語』注解4
(内容:『論語』で、教科書によく採用される「学而不思、則罔」の文章の文法解説。)
『論語』注解4■原文子曰、「(1)
学而不思、(2)
則罔。(3)
思而不学、則殆。」(為政)■訓読子曰はく、「学びて思はざれば、則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば、則ち殆(あや)ふし。」と。■訳先生がおっしゃった、「学んで思索しなければ、ぼんやりしている(=道理がよくわからない)。思索して学ばなければ、疑わしく危うい(=独断で危険である)。」■注(1)【学而不思】次の句「則罔」に対して、その条件となる句。
すなわち確定条件を表す複文である。
孔子の時代の「学」については、1の(2)で触れた。
師や先輩から口頭で古典を教え聞かされるのが中心で、紙の書籍によって学ぶのではない。
「而」は連詞。
ここでは語と語を時間軸順につなぐ働きをする。
「学んでも思索しなければ」という意味だから、「学べども思はざれば」「学ぶも思はざれば」と訓読すべきではないかとする向きもあろうが、日本語の「て」や「で」はそのように狭いものではなく、逆接でも普通に用いる。
「思」は「脳中にある心」が原義(加藤常賢『漢字の起源』角川書店1970)という。いわゆる思索である。
「学而不思」は、師や先輩から教えられた古典の知識を知るだけで、それについて自分で思索しようとしないことをいう。
(2)【則罔】「則」は、原義が「刀で傷つける」(加藤『漢字の起源』)意とも「器に刀を添える」(藤堂明保『漢字語源辞典』學燈社1965)意ともいわれ、刀で等しく切り分けるところから、転じて「法則」「規則」の意に用いられる。
「則」が「~する場合」という意味を表すのはこれによる。
また、「我則不然」(私はそうではない)のように、実字の後に用いられて「~は」と分けて説く副詞の用法も「~の場合は」という意味があるからで、みな法則の原義に基づく。
ここでは、連詞で前者。
前句の「学而不思」をうけて、「学んで思索しない→その場合は」と、法則として「罔」という結果を示す。
「罔」は「网」であり、糸を交差させたもの、すなわち網が原義。
魚をとるために隠すところから、転じて、ぼんやりして見えないの意を表す。
「物事の道理にくらい」などと教科書の脚注に書いてあるが、要するにぼんやりしたままだということ。
意訳してしまうと、孔子の表現は伝わらない。
師や先輩から教えを授けられたり、古典に触れて学んでも、自分で思索を深めないことには、すとんと落ちるところがない、道理を生きたものとして身近に引き寄せて理解できないということだ。
(3)【思而不学、則殆】文の構造、「而」「則」などの働きは「学而不思、則罔」と同じ。
「思而不学」とは、思索して学ばないということだから、自分の狭い見識の中だけでの思索に終始して、古典などの広い知識の裏付けがない状態を指す。
自分なりの思索の結果こうしよう、こうであろうと考えることはありがちなことだが、それが欠点や至らぬところをもっているというのは、古典にはすでに示されていたり、その知識から類推して判断できる場合があるわけだ。
同じ過ちを何度も繰り返したりする理由が、過去の経験を顧みようとしないからというのはよくあることだ。
「殆」は、教科書では「あやふシ」と読んで、独断に陥って危険であると解するものが多いが、実は語義には諸説ある。
何晏は
「不学而思、終卒不得、徒使人精神疲殆」
(学ばずに思索すれば、最後まで何も得られず、ただ人の精神を疲労させるだけだ)
とし、「疲れる」の意とする。
陸徳明は『経典釈文』に
「依義当作怠」
(義によって「怠」に作るべきである)
とする。
朱熹は『新注』で
「危而不安」
(危険で安らかでない)
とし、「危うい」とする。
また、清の劉宝楠は『論語正義』で、陸徳明の説を紹介した上で、さらに清の王引之が『経義述聞』に「殆」を「疑」とする説を引用する。
すなわち「疑わしい」である。
なお、現行の『論語』の通釈書のいくつかが、劉宝楠は「疑」と解していると説明しているが、複数ある説の中で「其説亦通」(その説も通じる)とするだけで、「殆」の語義が「疑」だと主張しているわけではない。
同じ為政篇に
「多聞闕疑、慎言其餘、則寡尤。多見闕殆、慎行其餘、則寡悔」
(多く聞いて疑わしいことを除き、慎重にその残りを言えば、とがめられることが少ない。多く見て「殆」を除き、慎重にその残りを行えば、悔いが少ない)
とあるが、これは互文構造であるから、「多聞見闕疑殆、慎言行其餘、則寡尤悔」とまとめてよいと思う。
してみると、「疑」と「殆」は近い意味で用いられていることがわかる。
だから「殆」は疑わしいの意だと即断するのはよろしくないが、実行してよい内容として除外されるものは、確信をもってしてよいかどうかわからない危なっかしいことであろう。
『説文解字』では「危うい」が原義とされる「殆」だが、危ういがゆえに疑わしいともいえ、解釈の上では「危うい」とも「疑わしい」とも解せると思う。
「疲れる」の意ではあるまい。
【文の成分および品詞分解】(←クリックしてください)