『孟子』注解1
(内容:『孟子』で、教科書によく採用される「何必曰利」の文章の文法解説。)『孟子』注解1 (以下 京都教育大学附属高等学校 研究紀要97号 2024.3 より)
■原文(1)
孟子見梁恵王。王曰、「(2)
叟不遠千里而来、(3)
亦将有以利吾国乎。」孟子(4)
対曰、「(5)
王何必曰利、(6)
亦有仁義而已矣。(7)
王曰『何以利吾国。』(8)
大夫曰『何以利吾家。』(9)
士庶人曰『何以利吾身。』、(10)
上下交征利、(11)
而国危矣。(12)
万乗之国、(13)
弑其君者必千乗之家。(14)
千乗之国、弑其君者必百乗之家。(15)
万取千焉、千取百焉、(16)
不為不多矣。(17)
苟為後義而先利、(18)
不奪不饜。(19)
未有仁而遺其親者也。(20)
未有義而後其君者也。(21)
王亦曰仁義而已矣。(22)
何必曰利。」(梁恵王上)■訓読孟子梁(りやう)の恵王に見(まみ)ゆ。王曰はく、「叟(そう)千里を遠しとせずして来たる、亦(また)将に以て吾が国を利する有らんとするか。」と。孟子対(こた)へて曰はく、「王何ぞ必ずしも利と曰はん、亦仁義有るのみ。王『何を以て吾が国を利する。」と曰ひ、大夫(たいふ)『何を以て吾が家を利する。』と曰ひ、士庶人(ししよじん)『何を以て吾が身を利する。』と曰ひ、上下(しやうか)交(こもごも)利を征(と)らば、国危ふし。万乗(ばんじよう)の国、其の君を弑(しい)する者は必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為さず。苟(いやし)くも義を後にして利を先にするを為さば、奪はずんば饜かず。未だ仁にして其の親を遺(す)つる者有らざるなり。未だ義にして其の君を後にする者有らざるなり。王亦仁義と曰ふのみ。何ぞ必ずしも利と曰はん。」と。■訳孟子が梁の恵王にお目通りした。王が言うには、「先生は千里(の道のり)を遠いともされずにいらっしゃった、やはり我が国に利益を与えてくださるおつもりがあるのでしょうか。」と。孟子がお答えすることには、「王はどうして必ず利とおっしゃいましょうや、やはり仁義があるばかりです。王が『どうやってわが国を利するか』といい、大夫が『どうやってわが家を利するか』といい、士や庶民が『どうやってわが身を利するか』といい、上の者下の者が互いに利をとれば、国は危ういですぞ。戦車万台を出す国において、その主君を殺すものは必ず戦車千台の大夫です。戦車千台を出す国において、その君を殺すものは必ず戦車百台を出す大夫です。万について(その中から)千を取り、千について(その中から)百を取るのは、多くないとはしませんぞ。もしも義を後回しにして利益を優先することをすれば、奪わなければ満足しません。まだ仁であってその親を忘れ棄てる者はおりません。まだ義であってその主君を後回しにする者はおりません。王はやはり仁義とおっしゃるばかりです。
どうして必ず利とおっしゃいましょうや。」と。■注(1)【孟子見梁恵王】「孟子」は、戦国時代の儒家の思想家。姓は孟、名は軻(か)、字(あざな)は子輿(しよ)。孔子の孫の子思(しし)の門人に教えを受けた。
「梁」とは、戦国時代の魏の国を指す。都が大梁にあったため、魏を指して梁ともいう。
「恵王」は、魏の3代目の君主「罃(おう)」、「恵」は諡(おくりな)。周王朝に対する諸侯であるから、王は僣号である。周の弱体化に伴い、大国の諸侯は王と称したのである。
「見」は、会うの意。
訓読では貴人や目上の人に会うときには「まみゆ」と読む。
「目見(まみ)ゆ」である。
依拠性の客体をとって誰に会うのかを表すので「~にまみゆ」と読む。
この義が形式化すると、助動詞として「見A」(Aせらる)のように用いられるが、これとてAという事態にあう(遭う・遇う)の意から被動を表すのである。
ちなみに、「見」は、貴人などに対してでなく「会う」の意でも普通に用いられ、その場合は訓読では「(~を)みる」と読む。
たとえば「梁恵王見孟子」なら「梁恵王孟子を見る」と読むが、孟子は依拠性に対する客体である。
(2)【叟不遠千里而来】
「叟」は、長老の称ではあるが、ここでは先生ぐらいの意。
謂語「不遠千里而来」に対する主語とし、呼びかけを表す独立語としてはとらない。
「不遠千里而」は、「来」を連用修飾する句。
千里(の道のり)を遠いと思わずにの意で謂語「来」にかかる。
連詞「而」が「不遠千里」でまだ意義の切れない句の後に置かれて、後へ続く働きを明瞭にするのだ。
「遠」は元来「遠い」という意味の形容詞だが、後に賓語「千里」をとることで動詞のように働き、「遠しとする・遠いと思う」という意味を表す。
「遠千里」は、この当時よく用いられた表現で、具体的に千里というのでなく、遠距離も意に介せずという意味。
(3)【亦将有以利吾国乎】
「亦」は、やはりの意の副詞。
そのことについて考え、色々と判断材料のある中で、「やはり」こうであろうと、自分の判断の結論として示すもの。
「自分がそうだと思うように、やはり」である。
この箇所、諸本は「先生もまた他の遊説者のように」のごとく解しているが、先に他の遊説者の言動があって、「それと同様にまた」という意味を「亦」が表しているのではなく、恵王の心中に孟子の来訪の意図についてあれこれ考えられるものがある中で、「やはりこうであろう」と取り出して見せたのが、「自国に利益を与えてくれようとする」であろうと思う。
事実として他に遊説者があったであろうし、それと同じように孟子も我が国に利益を与えるために来訪したのかという判断のはずだから、諸本の「先生もまた他の遊説者のように」と解しても結果的には同じことになるが、仮に遊説者がなかったとしても、判断材料の中に「自国に利益を与えてくれようとする」のかもしれぬというのがあれば、「亦」で取り出して見せることができる。
「AB。C亦B。」(AがBする。CもまたBする。」という合説の「亦」とは異なる。
「将」は、将来を表す時間副詞。
ここでは後の「有」を修飾する関係で、意志はこもらず「~するだろう」の意。
「有以~」は、それによって~することがある。
介詞「以」に賓語が伴わないが、前句に「不遠千里而来」とあることを受けて、それを表現されない賓語として「それによって」というのである。
つまり、千里を遠しとせずに来られたことによっての意。
この句が「将以利吾国乎」と「有」を伴わないものであれば、「それによって我が国を利するおつもりか」とか「我が国に利益を与えてくださろうとするのか」などと訳せるが、「有」は客観的にそのようなことがあることを示しているのであって、「それによって我が国を利することがあるのだろうか」という意味になる。
また、そう訳したからといって、「以利吾国」が「有」に対する主語ではない。
あえて読めば「以て吾が国を利するを有り」であって、「有山」(山を有り)と同様、「以利吾国乎」は「有」の客体である。
ただ、意志を有する他動ではなく、「有」は意志をもたぬ動作であり、客観性をもつ。
「利」は利、利益の意の名詞であるが、後に賓語「吾国」をとることによって、動詞のように働き、利益を与える、利益をもたらすの意。
恵王は自国の兵力を強くし、国を富ませることを念頭において「利」と考えているのであろう。
「乎」は疑問の語気詞。
(4)【対曰】
「対」は、自分よりも上位の者からの問いに対して答える時に用いる。
お答えするの意。
(5)【王何必曰利】
「必」は、
「木棒に竹を縛した矛戟の柄である」(加藤常賢『漢字の起原』角川書店)
など、諸説はあるが「しっかり縛る」が原義と思われ、「かならず」はその引申義。
「必」には「必ず」という必定と、「必要とする」という必須の意味がある。
「必曰利」を「必ず利というと決まっている」と解せば必定になるし、「利という必要がある」と解せば必須になるが、根は同じことである。
「何必曰利」は、その「必ず利という」を反語で打ち消したもの。
「どうして必ず利という必要があろうか」と訳せばわかりやすいが、「どうして必ず利というときまっていようか」あるいは「利というと限ろうか」とも解せぬことはない。
「何」は反詰の語気を表す語気副詞。
どうして(~か)。
「曰利」については、「利を曰ふ」と訓じている本もあるが、「言う」という具体的な動作に重きを置く「言」などとは違い、後の「利」によって実質的な意味が補充される形式的な動詞であることを考えれば、「利と曰ふ」と読む方がよいように思う。
(6)【亦有仁義而已矣】
「仁義」、仁とは博く人を愛する徳、義とは筋道を立てて人の踏み行うべき道のこと。
「亦」については、
「古の聖王の如くの意、古の聖王は皆仁義を以て名と為せり。」(簡野道明『孟子通解』明治書院1925)
とあるように、諸本概ね、かつての聖王が仁義により政治を行ったので、恵王もまた仁義により政治を行えの意に解している。
しかしこれも恵王の前言に対して孟子が心中あれこれ判断する中から、「やはり仁義によるべし」と取り出してみせるのである。
それはかつての聖王の仁義による政治を是とすればこそなので、結局のところ内容的には同じになるのだ。
ところが、この「亦」を小林勝人氏は「ただ」と読むべきだと主張する。
「亦の字、趙岐は亦惟をもってこれを釈き、群書治要は惟を唯に作っておる。亦の字は普通は上文を承けて『も亦』とよまれるが、ここでは上文を承けていない独立の助字と見なして、本書の旧版(昭和十一年刊行)においてはじめて『ただ』と訓じておいた。なお、滕文公上篇第四章の『亦不用於耕耳』および告子下篇第二章の『爰有於是、亦為之而已矣』・同篇第六章の『君子亦仁而已矣』などの亦の字も、同じくまた『ただ』とよむのがよい。」(小林勝人『岩波文庫・孟子』岩波書店)
がその主張である。
趙岐の注について『十三経注疏校勘記』で確認すると、諸本文字異同があるようで、
「『亦有仁義之道』,閩、監、毛本同,宋本『亦』下有『惟』字,廖本、岳本『道』下有『者』字,孔本、韓本、考文古本作『亦惟有仁義之道者』。」
(『亦有仁義之道』は、閩本、監本、毛本は同じで、宋本は『亦』の下に『惟』の字があり、廖本、岳本は『道』の下に『者』の字があり、孔本、韓本、考文古本作は『亦惟有仁義之道者』に作っている。)
とある。
この記載に従えば、小林氏が見たのは宋本ということになるが、そうすると、趙岐の注は次のようになる。
「孟子知王欲以富国強兵為利、故曰、王何以利為名乎、亦惟有仁義之道可以為名。」
(孟子は王が富国強兵を利としているのを知ったから、王はなぜ利を名分とするのか、[亦]ただ仁義の道を名分とすべきことあるのみですと言った。)
小林氏は『孟子』本文で「亦有仁義而已矣」とある部分が、趙岐の注では「亦」が「亦惟」となっているから、「亦」を「ただ」とよむのがよいと主張しているわけだ。
しかし、「而已矣」に呼応しているのは「惟」であって、「亦」は「やはり」と解すればよいのではないか。
つまり、「やはりただ仁義があるのみです」である。
趙岐は「而已矣」による限定の文意を明確にするために「惟」を補ったのであろう。
「亦」が「惟」の意だと考えていたなら、「惟有仁義之道可以為名」と書き換えていたはずだ。
氏がさらに指摘する『群書治要』を確認すると、
「亦惟有仁義之道可以為名耳。」(群書治要・巻37)
となっている。
先の趙岐の注には見られない「耳」が文末に置かれ、「唯」が「惟」になってはいるが、これとて「亦」が置き換えられたわけではない。
「亦」は「亦」として機能しているからこそ、「唯」や「惟」単独に置き換えられていないのではないか。
これだけでは小林氏の主張は成立しないと考える。
解恵全による『古書虚詞通解』は「亦」を限定の副詞とする考えに対して、
「此项诸例“亦”句句末大多有表示限止的语气词“耳”“已”“而已”,其实“亦”还是也,虽说可以译为只、特、但、不过,那也是受句意和句尾语气词的影响所致。」
(この項の諸例は“亦”句の句末に、ほぼ限定を表す語気詞“耳”“已”“而已”があり、実際のところ“亦”はやはりである、只、特、但(ただ)、不過(過ぎない)と訳せるとはいえ、それらは句意や句末の語気詞の影響によるものである。)
とある。筆者も同意である。
「而已矣」は3字で「のみ」とも、「而已」2字を「のみ」と訓じて「矣」を置き字とすることもある。
単独で「而已」もよく用いられるが、「已」「而已」「而已矣」は、等しく「のみ」と読んでも、表す意味や働きは異なる。
そもそも「已」は終結の語気を表す語気詞とされ、もとは動詞「やム」だ。
終結を表すから「やム」(終わる)ともなるし、「すでニ」ともなる。
句末で用いられて限定を表す場合も、たとえば
「然則王之所大欲可知已。」
(然らば則ち王の大いに欲する所は知るべきのみ。 孟子・梁恵王上)
の場合なら、「それなら王様の大いにお望みのことはわかります」などと訳すが、「知ることができるということで終わり」、すなわち前言「王之所大欲可知」を受けて、それだけだ、それで終わりだという意味を表しているのだ。
それに対して「而已」は「シテ終わり」だ。
「有仁義而已」なら、「仁義がある、シテ終わり」。
「而」は古典中国語文法では連詞とされるが、前言「有仁義」の義を借りて「仁義有るシテ」と「已」につなげる働きをする。
だから「仁義があって終わり」から「仁義があるばかりだ」となる。
さらに「矣」は確認の語気を表す語気詞だ。
「仁義有る、シテ終わり」ということを確認するのである。
「矣」が限定の語気を表しているのではない、そこまで述べたことを確認するのである。
だから、あえて訳せば「仁義があるばかりですぞ」ぐらいの意味になる。
したがって「而已」よりも「而已矣」の方が語勢は強い。
なお、文末を「のみ」と読めば、「だけ」と訳したがる傾向があるが、「~に過ぎない」「~ばかりだ」「~に他ならない」「~だ」などと、文意を考え、限定の語気をどう訳せばよいか柔軟に考えるとよい。
(7)【王曰何以利吾国】
「何以」は介詞句。
「以何」の倒置である。
介詞「以」の賓語「何」が疑問代詞のため倒置するのである。
ここでは、何をもちいて、どうやってぐらいの意。
「利」が動詞のように働いていることについては(3)で述べた。
「利吾国」とは、わが国に利益があるようにするの意。
(8)【大夫曰何以利吾家】
構造は(7)に同じ。
「大夫」は、周制では、卿・大夫・士の順に、天子や諸侯の家来の等級。大夫は時に卿を兼ねることがあるという。いわば家老である。
「家」とは、いわゆる家ではなく、大夫の所有する領地を指すという。
(9)【士庶人曰何以利吾身】
構造は(7)に同じ。
「士」は大夫に次ぐもの。仕えて役人となったものをいう。
「庶人」は仕えぬ一般庶民である。
王、大夫、士庶人と、それぞれに己に利益を求める様を立て続けに表現する孟子の弁舌の鮮やかさ、見るべきである。
(10)【上下交征利】
「上下」は漢音に従い「しょうか」と読む。
身分の上の者と下の者。
「交」は、交互に、互いに。人がスネをX型に交差させた形の象形ということで諸本一致する。
互いには、その引申義。
「征」は、取るの意。
「上下交征利」とは、上の者が下の者より利を得よう、下の者が上の者から利を得ようと、互いに利を取り合うことをいう。
なお、「王曰何以利吾国」よりこの句「上下交征利」までが、後の「国危矣」に対する仮定句になる。
(11)【而国危矣】
「而」はここでは仮定的に用いられている。
「則」の義と説くものもあるが、「而」はあくまでも方法格で、そうすることで国が危ういとは、そうすれば国が危ういということだ。
仮定的に用いられているから「而」を「すなはち」と読むこともある。
すなわちと読んで意味が通るからといって「則」の意味ではない。
「則」は法則を表すが、「而」はそうではない。
なお、「王曰何以利吾国、大夫何以利吾家、士庶人何以利吾身」までを仮定句として
「王何を以て吾が国を利せんと曰ひ、大夫何を以て吾が家を利せんと曰ひ、士庶人何を以て吾が身を利せんと曰はば」
と読み、「上下交征利而国危矣」をその結果を表して
「上下交利を征りて国危ふし」
と読む本もある(簡野道明『孟子通解』、早稲田大学出版部『漢籍国字解全書・孟子』など)。
「矣」は確認の語気詞。
「国は危ういですぞ」と確認するのである。
(12)【万乗之国】
「万乗」は、戦車1万台、「乗」は戦車の量詞。
要するに戦車1万台を出せる国で、天子の国を指す。
しかし、この当時周王朝は衰微し、諸侯もそれだけの軍勢を出せる状態であったので、魏も含めて万乗の国として孟子は扱っている。
「之」は結構助詞。
ここでは「万乗」という名詞を受けて「国」を連体修飾する。
この「万乗之国」は、後の叙述「弑其君者必千乗之家」の主題を提示したものである。
現在の語法学では主題主語と呼ばれるのでそれに従う。
(13)【弑其君者必千乗之家】
「弑」は、臣下が主君を殺す、または子が親を殺すことをいう。
ここでは前者。
「其」は、先に主題として示された「万乗之国」を指す。
「者」は結構助詞。
それ自体には実質的な意味はないが、前の語を受けて実質化して指示する働きがある。
「弑其君」は「その君を殺す」という独立した文だが、「者」を後に置くことで「その君を殺すもの」という名詞句となり、「弑」という行為の主体を指示するのだ。
「もの」と読むからといって、「者」自体が人を表すわけではない。
「千乗之家」とは、戦車千台を出せる大夫をいう。
万乗の国の大夫だ。
「必」については(5)で述べた。
この「弑其君者必千乗之家」は、判断文。
したがって「弑其君者」はその判断の対象を表すもので、厳密には主語ではなく主題を提示したものだが、これも現在の語法学では主題主語として扱われている。
今、それに従う。
(14)【千乗之国、弑其君者必百乗之家】
構造は(13)に同じ。
「百乗之家」は、戦車千台出せる国の大夫。
(15)【万取千焉、千取百焉】
「万」「千」「百」は、それぞれ万乗、千乗、百乗を指す。
「焉」は置き字として読んでいないが、もちろん働きがあり、「之」に近く、それより軽い。
よく「焉」は「於此」「於是」の兼詞(縮約語)だとされるが、「此」「是」のような実質的な意味はない。
「之」と同じく前言を借りて自己を実質化する形式的な名詞である。
この「焉」はいわば「於之」にあたるのだが、「於」は「取」の依拠性を明確にするために置いたもので、必須ではない。
また、「於之」という形は実際にはない。
そこであえてわかりやすくするために「於是」を用いると、
「万取千焉」は「万取千於是」
(万 千を是より取る)
となり、万については千をそれから取るの意であることがわかろう。
それをさらにわかりやすくするために「万の中から千を取る」と意訳しているのである。
つまり、2句の先頭の「万」「千」は、やはり主題を提示したもので、万が千を取り、千が百を取るのではない。
「万取千焉」の「焉」は「万」を借りて指し、「千取百焉」の「焉」は「千」を指す。
「万取千焉」とは具体的には万乗の国において千乗なみの規模の領地をもらう、すなわち主君の10分の1を得ることをいう。
(16)【不為不多矣】
十分に多いということ。
「不多」を「不為」で打ち消しているので、結果的に指す意味は「為多」(多しと為す)となるが、「多くないとする」という判断を「不」できっぱり打ち消す分、それよりも強くなる。
「矣」は確認の語気詞。十分に多いですぞというのだ。
(17)【苟為後義而先利】
「苟」は仮定を表す連詞。
原義は「草の名」といわれ、借用義で、「しばし、しばらく」の意を表す。
それが転じて「しばらく~として・しばらく~したら」から「かりに」という仮定の接続詞になったものらしい(李学勤『字源』等)。
「後義而先利」とは、本来人が踏み行うべき道を後回しにして、利益を優先するということ。
上位の者には上位の、下位の者には下位の、なすべき道理があるのだが、利益を優先すれば、その道理は失われてしまうのだ。
「而」は連詞だが、あくまで「後義」(義を後回しにする)を受けて、そんなやり方でと「先利」につながるのである。
(18)【不奪不饜】
先の仮定句「苟為後義而先利」を受けて、それに応じた結果を表す句。
その内容がさらに「奪わなければ満足しない」という条件と結果を表す形になっている。
「不A不B」の形がいつもそうなるわけではない。
「AせずBせず」(AしないしBしない」という場合もあるので注意が必要だ。
「饜」は、満足するの意。
(19)【未有仁而遺其親者也】
「未」は、まだ~ないの意の否定副詞。
「有仁而遺其親者」(仁であってその親を棄てる者がいる)という判断を「未」で「まだ~ない」と打ち消すのである。
その分、存在・非所有を肯定的に描写する「無」を用いた表現とは異なる。
「仁而遺其親者」は、結構助詞「者」により、人を指す名詞句になっている。
すなわち、「仁而遺其親」(仁であってその親を棄てる)は独立した文だが、「者」により名詞句となり、その行為をする人を指すのである。
これにより謂語「有」の賓語となりやすくなる。
「仁而」は、「仁であり、シテ」。
つまり、仁であって。
仁である状態、それを用いてということ。
なお、この「仁」は名詞だが、仁ではなく、仁であるの意。
叙述態になっているのだ。
「仁而」で「遺」の状語、すなわち連用修飾になっている。
「遺」は、忘れ棄てる。
「其」は「仁」を受けて、その仁である者を指して、「親」を修飾する。
「也」は説明の語気を表す語気詞。
この句、仁は博く人を愛する心であり、親を思う孝心その基本であるから、それを身につけている状態をもってして、親を忘れ棄てることなどとうていあるはずもないのである。
(20)【未有義而後其君者也】
構造その他は(19)に同じ。
「義而」も(19)の「仁而」と同じく「後」に対して状語となっている。
「後」とは後回しにする、ないがしろにするの意。
この句も、義は人の踏み行うべき正しい道そのものであるから、臣下たるものがその筋目をないがしろにして自分の主君を後回しにすることなどあるはずもないことをいう。
(21)【王亦曰仁義而已矣】
ここまでの弁舌を踏まえ、「王はやはり」と、孟子自身のそうあるべきと思う考えを取り出してみせるのである。
「昔の聖王が仁義を行ったように、王も」というのと、実際には重なるが、「亦」の働きは(3)と(6)で述べた通りである。
「ただ」の意味ではあるまい。
「而已矣」についても、(6)参照のこと。
(22)【何必曰利】
(5)参照。
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