『論語』注解1
『論語』注解1 (以下 京都教育大学附属高等学校 研究紀要95号 2022.3 より)
■原文(1)
子曰、「(2)
学而(3)
時習之、(4)
不亦説乎。(5)
有朋自遠方来、(6)
不亦楽乎。(7)
人不知而不慍、(8)
不亦君子乎。」(学而)■訓読子曰はく、「学んで時に之を習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。」と。■訳先生がおっしゃった、「学んでしかるべき時にそれを復習するのは、やはりうれしいではないか。友人が遠くから来てくれるのは、やはり楽しいではないか。人が(自分を)理解してくれなくても不平に思わないのは、やはり君子ではないか。」■注(1)【子曰】「子」は、男子の敬称。転じて「先生」の意。
「孔子」といわないのは、弟子が聞き取ったものだから。
弟子にとって直接「子」と呼ぶのは孔子に他ならない。
これが弟子ではない人が書けば、「孔子曰」となる。
「いはく」と読むのは、訓読上のこと。日本語の「言ふ」のク語法に過ぎず、当たり前のことだが、「~と曰ふ」が構造的には正しい。(※この記述については、拙稿「論語・語法注解6」で白紙撤回し、訂正を行っているので、参照されたい。)
(2)【学而】「学」は、学ぶ、だが、我々のいわゆる「学ぶ」ではない。
孔子の時代に現代のような紙の書籍があるはずもなく、竹簡木簡の類はあっても一般に普及していたわけではない。
したがって、書物を読んで自学するのではなく、師や先輩から口頭で古典を教え聞かされ、学問はそこから始まるのである。
伊藤仁斎『論語古義』に
「学、傚也、覚也。考諸古訓、験之見聞、有所傚法而覚悟也」
(学とは、ならう(まねる)であり、覚るである。これを古い先人の教えに照らして考え、これを実体験に試してみて、それにならうものがあって覚るのである)
とあるのは、朱熹が『論語集注』で
「学之為言效也」
(学という言葉の意味は「ならう」である)
に基づくものだが、許慎の『説文解字』「学」の条に「覚悟也」とあるのを併せた説明であろう。とは、謡口明が『研究資料漢文学1 思想』(明治書院1992)で指摘していることだが、これで「学」の義は説明し尽くしていると思う。
すなわち、師や先輩から教えられた先人の言葉や事跡(古典)を、復唱して覚え、実体験を通じて、それと思い当たる悟り、知覚が「学ぶ」という行為だというわけである。
「而」は連詞。
ここは「~して」と後句「時習之」を導く働き。
(3)【時習之】「時」の解釈は諸説あるところで、
「折にふれて。学ぼうとして学べる時はいつでも」(前出、謡口明)
とも、
「時々刻々少しも間断のないこと」(宇野哲人『論語新釈』講談社1980)
とも、
「『時』とは、適切な時にという意味で、いわゆる『ときどき』ではない」(𢎭和順『漢詩・漢文解釈講座5 論語』昌平社1995)
とも説かれる。
解釈上の問題であって、語法的にこうと断定できるものではない。
私的には、「時」は時機を表し、要するにタイミング。「しかるべき時に」の意であろうと思う。
吉川幸次郎も
「然るべき時、英語でいえばtimelyの意であって、時どき、occasionalの意ではない」(『中国古典選 論語』朝日新聞社1978)
と述べている。
「習」は、繰り返し復習する。
朱熹は、
「習、鳥数飛也。学之不已、如鳥数飛也」
(習うは、鳥がしばしば飛ぶのである。鳥が何度も飛ぶように、学んでやまないのである)
と説明する。
『説文解字』に
「数飛也」
(しばしば飛ぶのである)
に基づくもの。
「之」は代詞であるが、「此」とは違う。
「此」は「これ」であり、実際にあるものを指す近称の実質的な意味をもつ語だが、「之」自体には実質的な意味はなく、上の「学」によって意味が実質化する。
つまり、「学」がなければ意味をなさぬ。
ゆえに「之」は「学」を借りて実質化する語である。
それ自体形式的な語だから賓語をとるべき「習」の後に穴埋めに用いて、「習」を動詞として安定させることもできるのだ。
(4)【不亦説乎】「説」は「悦」に通じ、喜ぶの意。
心中うれしく思うのである。
知識として知り得たことを、繰り返し実践することを通して、これであったかと、はたと思い当たり、真の知となることに対する喜びである。「不亦~乎」の形は、従来日本では「なんと~ではないか」という詠嘆・感嘆の句形とし、日本の漢和辞典にもそのように書かれている。
しかし、本来反語の句形としつつも、慣習として「なんと~ではないか」と訳すことになっているなどと、奥歯にもののはさまったような書き方になっているものも見られ、なにゆえに「不亦~乎」が詠嘆・感嘆を表すのかを明確に説明したものはないように思う。
というよりも、そもそもこの句形が本当に詠嘆・感嘆を表すのか自体が疑わしい。
「亦」の字は、人の体を表す「大」の字のわきにあたる部分に「ハ」を付けて示したもので、要するに「わき」を表す字である。
藤堂明保は、
「『ワキ』とは,中間に一定の隔たりをおいて,・―・型に配置されたものであるから,・―・―・―型の一部分である。同じ物や状態が,間をおいてもう一度生じる場合の副詞に,亦を用いるのは,その派生義である」(『漢字語源辞典』學燈社1965)
とし、加藤常賢は
「『亦』を『また』の意に用いたのは、この字にある意とすれば、左右両腋あるところから来たかと思う」(『漢字の起源』角川書店1970)
と述べている。
してみると、対称もしくは反復がこの字の原義ということになろうか。
「不亦~乎」がいかなる意味であるかを論ずる前に、「亦」の字の基本的な働きを述べておく。
「亦」は、「則」に対する語だ。
「太郎好桃」(太郎が桃を好む)に対して、「花子則不好」(花子は好まない)であれば、「花子は」と太郎の場合とは異なることを分けて説く。
それに対して、「花子亦好桃」(花子も桃を好む)であれば、事情が同じであると合わせて説くのである。
これを松下大三郎は、分説・合説の別をもって説明している(『標準漢文法』紀元社1927)。
また、「則」は前句の内容を受けて、「その場合は」と法則に基づいて結果を示す。
つまり、「好桃則可」(桃を好めばよい)に対して、「不好桃則不可」(桃を好まなければよくない)となる。
それに対して、「亦」は「その場合もやはり」で、「好桃則可。不好桃亦可」(桃を好む場合はよい。桃を好まない場合もやはりよい)となる。
「亦」の働きは基本的にこれである。
しかし、「亦」が同類の比較内容を前にとらない例も多々見られる。
『孟子・梁恵王上』の「亦有仁義而已矣」([亦]仁義があるばかりです)は、誰か別のひとに仁義があったと前に述べられているわけではないし、蘇軾の『范増論』の「嗚呼、増亦人傑也哉」(ああ、范増[亦]人傑であるなあ)も、范増以外の人傑が前に示されていたわけではない。
特に前者の場合は、「亦」が「惟」(ただ)の意と説明されることもあり、各種虚詞詞典、『孟子』の注釈書(小林勝人氏『孟子』岩波文庫1968)にも説かれている。
またあるいは、「古の聖人がそうであったように、恵王もまた」と説かれることもあり、高等学校教科書の脚注や指導書にも記載されることがある。
しかし、筆者はこれらを疑わしいと思う。
これらの「亦」は「も」ではなく「やはり」であろう。
前に同類の比較内容があるのに基づいて、これもというなら「も」だ。
しかし、そのことについて考え、色々と判断材料のある中で、「やはり」こうであろうと、自分の判断の結論として示す「亦」である。
つまり、「自分がそうだと思うように、やはり(~だ)」である。
このことについても、すでに松下大三郎が指摘している。
「不亦~乎」について述べるなら、「やはり~ではないか」である。
清の王引之は『経伝釈詞』で
「凡言『不亦』者、皆以『亦』為語助。『不亦説乎』、不説乎也。『不亦楽乎』、不楽乎也。『不亦君子乎』、不君子乎也。趙岐注『孟子・滕文公』篇曰、『不亦者、亦也』、失之」
(すべて『不亦』というのは、みな『亦』は語助である。『不亦説乎』は不説乎(よろこばしくないか)である。『不亦楽乎』、は不楽乎(たのしくないか)である。『不亦君子乎』、は不君子乎(君子ではないか)である。趙岐が『孟子・滕文公』篇に『不亦は、亦である』と注しているのは、誤っている)
と述べ、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず意味がないとする。
この説に従い、「不亦」の「亦」は語助に過ぎず、意味がないと書かれているものもある(たとえば渋沢栄一『論語講義』など)。
また、吉川幸次郎は王引之の説を引用、「古代中国語についての権威者の説として、傾聴すべきである」とした上で、
「わが伊藤東涯の『用字格』にも、不亦……乎、亦た……ならずや、は、不其……乎、其れ……ならずや、にひとしいという。要するに、どうだ説ばしいことではないか、どうだ楽しいことではないか、どうだ紳士だとは思わないか、と強く且つやわらかに、相手の同意を、導き出すいい方であると見るのが正しい」(前出)
とする。
しかし事実として「不説乎」「不楽乎」「不君子乎」とは表現されていないのであって、「亦」を語助と切って捨てるのはいかがなものか。
後漢末の趙岐は「不亦~乎」は反語の形をとっているが、結果的に「亦~」になると述べているのであって、私的にはむしろ王引之の判断の方が疑わしいと思う。
事実、あることに対して、「亦異矣」などと筆者の見解を示すこともあるが、この「亦」は語助ではあるまい。
「やはりおかしいことだなあ」と自身の判断を述べているのであって、「異矣」とは違うであろう。
それを反語にすれば「不亦異乎」になるわけだ。
本邦では、荻生徂徠が『訓訳示蒙』で
「『我嘗学而時習之 則説故汝亦当学而時習之 不是汝心説乎
(ヲレガ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレテ ミタレバ ヲモシロイホドニ ヲミモ ナラフテ トキドキ ソレヲ シナレヤレ ヲミノココロ モ ヲモシロイ デハ ナイ カヤ)』、
是ノ如クミルベシ。『吾既説汝不亦然乎
(ヲレハ ハヤ オモシロイ ヲミ モ ソフデハ ナイ カ)』、
是ノ如ク『説』ノ字ヲ上ヘ、ヌキダヒテ、下ノ『説』ノ字ノ処ヘハ、『然』ノ字ヲ、入カヘテ、ヨクスムナリ」
(『私が学んで時々それをしなれてみたらおもしろいから、あなたも学んでときどきそれをしなれなさい。あなたの心もおもしろいではないか』。このように見るがよい。『私はすでにおもしろい、あなたもそうではないか』。このように、『説』の字を上へ抜き出して、下の『説』の字のところには、『然』の字を入れ替えて、よく理解できるのだ)
と述べている。
これは「亦」を「も」の意味に捉えたものだ。
それに対して、河北景楨は『助辞鵠』で
「論語ノ不亦説乎ヲ悦ブヘキ事ハ多ケレド此モ亦説シト云ヤウニ心得或ハ我悦シイホドニ汝モ亦説カラント云ヤウニ心得ルハ殊テ聖人ノ語意ヲ失フモノ也」
(『論語』の「不亦説乎」を、「悦ぶべきことは多いが、これも亦た悦ばしい」というように理解したり、あるいは、「私が悦ばしいのだから、あなたも亦た悦ばしいだろう」というように理解するのは、すべて聖人の言葉の意味を失うものである。)
と痛烈に批判する。
これは
「亦ノ本義総也ト云ヲ助字ニ用タルナレハ惣体ヨリ旁子ク及フノ義也」
(「亦」の本義「総である」というのを、助字に用いたのであるから、「全般的に考えた上からあまねく及ぶ」の意味である。)
という解釈に基づくものである。
さらに、
「此ハ全体学習ノ説ヲ得タル人ノ上カラ仰ラレシ亦ノ字也 設令ハ月ヲ見花ヲ詠ジテ至極面白フ思フヨリ情ト共ニナント亦面白イデハナイカヤト云亦ノ如シ」
(これは、もともと学習の喜びを得た人の立場からおっしゃった「亦」の字である。たとえば、月を見たり花を詠じて、とてもおもしろく思うから、情とともに、なんと亦たおもしろいではないかという「亦」のようなものだ)
とも述べている。
また、「不亦~乎」が「不以~乎」「不已~乎」に通じるとする説もある。
この場合「以」「已」は、「はなはだ」の意であって、「とても~ではないか」と解する(楚永安『文言复式虚词』等)。
楚永安は『孟子・滕文公下』に
「後車数十乗、従者数百人、以伝食於諸侯、不以泰乎」
(後車数十台、従者数百人を連ねて、諸侯を回って諸侯の間を食禄を受けるのは、はなはだ驕っているのではないか)
とあるのが、『論衡・刺孟』では「不亦泰乎」に作っているのを指摘して、この「不亦~乎」が「不以~乎」と同義であるとして、王引之の説を是として、「亦」自体に実質的な意味はなく、反語の語気を強めているとする。
このように古典の同じ部分の引用が異なる表現になっていることを証左として、2つの字義を同じとする類推はよくある手法であるが、近い意味を表すことは示し得ても、それをもって全く同じと断ずることは危険だと思う。
さらに、尹君は『文言虚词通释』(广西人民出版社1984)において、この形式の「不」は「豈不」の「豈」が省略されたものだと説く。
つまり、「不亦説乎」は「豈不亦説乎」の省略形だというわけだ。
実際、
「閎夭事文王、周公輔成王也、豈不亦忠乎」
(閎夭文王に事へ、周公成王を輔くや、豈に亦た忠ならずや 史記・范雎蔡沢列伝)
などの例も見られるが、省略形というのなら「豈不亦~乎」の形が「不亦~乎」に比べて圧倒的に用例数が少ないことをどう説明するのか。
高等学校の教科書や参考書等では、「豈」は反語を表す用法を主として、疑問や感嘆・詠嘆を表すこともあると紹介される。
感嘆・詠嘆の場合なら、「豈不悲乎」は「なんと悲しいではないか」として、「豈不~乎」で「なんと~ではないか」と訳している。
しかし、「豈」はそのような語義の語ではなく、疑いをもって自身で反省してみたり、相手に反省を促してみる語だ。
すなわち「どうか?」「どうであろう?」である。
「豈不悲乎」は「どうであろう悲しくないか?」だ。
だから「豈不亦忠乎」というのは、「どうであろうやはり忠義ではないか?」であって、「なんと忠義ではないか」の意ではあるまい。
しかし、「不亦~乎」の前に「豈」を置き得るのは、「豈」も「亦」も反省を背景にもつ語だからである。
「色々考えてみて、どうであろう、やはり~」というのは、自然な思考の流れである。
世のいわゆる感嘆・詠嘆の「不亦~乎」の形の前に、「豈」は置き得ても、「何不亦~乎」「安不亦~乎」の形をとる例が一切見られないのも、「豈」が「何」や「安」と語義の異なる語だからであろう。
結論として、「亦」の基本義に照らして、「不亦説乎」の義を考えれば、筆者は「亦説」(やはり喜ばしい)を否定の形で問いかけたもので、「『やはり喜ばしい』ではないか」、つまり「不亦説乎」は「亦説」と婉曲的に伝えるための反語表現ではないかと思う。
必ず感嘆や詠嘆を表す表現ではあるまい。
「不亦~乎」は、「亦~」を反語にした形で、色々と考えられる中で、「やはり~ではないか」と提出する語法であろう。
その意味で、河北景楨の「惣体ヨリ旁子ク及フノ義也」は、正鵠を射ている。
「なんと」という感嘆・詠嘆の語は、その情とともに提出されることもあるものに過ぎず、「不亦~乎」自体が必ず「なんと」を伴う表現ではないと思うが、いかがであろうか。
(5)【有朋自遠方来】 いわゆる存在の兼語文。
「有朋」(友人がいる)と「朋自遠方来」(友人が遠くから来る)の2文からなる。
「朋」は前文の賓語であり、同時に後文の主語を兼ねるので、中国の語法学では兼語という。
まず「朋」の存在が示され、その「朋」がどうしたかを示す構造をとるわけだが、「朋自遠方来」全体が「有」の賓語ではないかという見方もあり得よう。
しかし、兼語式の場合、前文の「謂語+賓語」の結びつきが強く、発音上の停頓が謂語動詞の直後に置けないことが指摘されている(鳥井克之『中国語教学(教育・学習)文法辞典』東方書店2005)。ところが、この「有朋自遠方来」の「有」について、江戸後期の儒者東条一堂は『論語知言』で、
「按此有者、非対有無之有、遇有此事也。又稀有此事也」
(考えるにこの「有」は、「有無」に対するの「有」ではなく、この事があるのに遇うのである。またまれにこの事があるのである)
と説く。
そして『説文解字』が
「有不宜有也」
(「有」はあるべきではないのである)
として『春秋』の伝に
「日月有食之」
(日月之を食する有り …伝に見られる記述は「日有食之」で「月」の字を欠く
)
を引用するのを論拠としている。
してみると、東条はこの句を「まれに友が遠方より来ることがある」の意に解していることになる。
「有」の本来の字義に発生の意味があることについて、加藤常賢は否定するが(『漢字の起源』角川書店1970)、藤堂明保は「有」には有無と保有の二義があり、
「有無の有とは,人々の思いがけぬことが,忽然として起こる(生じる)というのが本義であろう」
とする(『漢字語源辞典』学燈社1965)。
まれに見ることとして学問上の心を同じくする友が遠方から訪れてくれる、それに対する喜びを孔子は表現したとすれば、この句は発生を表す「有」が賓語として「朋自遠方来」をとることになる。
「有人~」はよくある文だから、構造的には兼語文とみなすべきかとも思うが、そもそも兼語文という概念そのものが1940年代に王力が提唱して始まった後付けのものであり、それがすでに正しいと決めつけるのではなく、疑ってみる視点があってもよかろう。「自遠方来」は、介詞句「自遠方」+謂語「来」の構造。
「自」は起点を表す。
「従」も同じ意味を表す介詞だが、「自~」が謂語の後に置かれて「来自遠方」(遠方より来たる)の形をもとり得るのに対して、「従~」が謂語の後に置かれることはない。
「自遠方来」は介詞句が状語(連用修飾語)として謂語「来」を修飾する形式。
「自」は鼻の象形文字で、自分を指す時に鼻を示すことから起点を表すようになったという説がある。「朋」は、友人。
三国魏の何晏の『論語集解』は
「同門曰朋」
(同門を朋という)
という包咸の注を引く。
また、邢昺の『論語注疏』は鄭玄が『周礼注』につけた
「同師曰朋、同志曰友」
(師を同じくするを朋といい、志を同じくするを友という)
を引用するが、この箇所の「朋」を同門とか同師に限定して解釈する必要はあるまい。
(6)【不亦楽乎】「不亦~乎」については、(4)で述べた。
「楽」は「説(悦)」に似るが、邢昺は『論語注疏』に
「在内曰説、在外曰楽」
(内にあるのを「説」といい、外にあるのを「楽」という)
という説を引く。
吉田賢抗も
「悦びが心の外にあふれ、容貌にも現れる。自分一人の悦びをいう『悦』に対している。門人や学友と共に研究して発明するところあるの楽しみである」
と述べている(新釈漢文大系1『論語』明治書院1960)。
「学而時習之、不亦説乎」が、知り得たことが体験を通じて真の知となることの個人的な喜びであるのに対して、学問を通じて志を同じくする者との交流は学ぶ者の楽しみであるという学問的深度の深まりを認めての解釈であろう。
(7)【人不知而不慍】「人不知」は「人が知らない」。
「人が知る」なら、「人知之」とも表現するが、「不」が通常名詞を修飾しない副詞であるために、「不知」でよく「之」を必要としない。「知」は認知よりは理解の意。
人が理解してくれないのである。
従来「人」とは、
「ここでは自分を挙げ用いてくれない君主王侯をさす」(新釈漢文大系1『論語』明治書院1960)
と解されている。
もちろん文意によるもの。
「而」は連詞。
ここは「人不知」と「不慍」が逆接の関係につながるが、古来「人知らずして」と訓読することが多い。
逆接だからといって必ず「ども・も」でつながなければならぬものでもなく、日本語の幅である。
「慍」には従来「いきどほる」「うらむ」の二訓がある。
『説文解字』に
「慍、怒也」
(「慍」は、怒るである)
とある。
何晏は
「慍、怒也。凡人有所不知、君子不怒」
(「慍」は、怒るである。凡人に理解しないことがあっても、君子は怒らない)
と注する。
朱熹も
「慍、含怒意」
(「慍」は、怒りを含むの意 『論語集注』)
とする。
これなら「いきどほる」。
それに対して荻生徂徠は『論語徴』で
「慍、謂心有所怫鬱也。蓋慍鬱一音之転、不必訓怒」
(「慍」は、心に鬱屈するものがあるのである。思うに「慍」と「鬱」は類似の音で、「いかる」と読む必要はない)
とする。
他者に対しての怒りではなく、自己内部のものだというのだが、これなら「うらむ」と読むことになる。
どちらも通る。
(8)【不亦君子乎】「亦君子」(やはり君子である)を婉曲的に伝えるための反語表現。
「君子」は名詞だから、「非亦君子乎」ではないかとも思われようが、「非亦~乎」は例がないわけではないが、「不亦~乎」に比べて極端に少ない。
むしろ「君子」を単純に名詞と考えるよりも、叙述性を帯びた形容詞的な働きをする語と考えた方がよかろう。
「君子」は、人格、学問ともにすぐれた有徳の人。
もともとは貴族の高位クラスの為政者を指すことば。
それがそれにふさわしい知性と教養、人柄を伴う人物を表すようになったもの。
しかし、前述したように、ここでは叙述性を帯びて、「亦君子」で「やはり君子である」という意味を表していると思う。
「人不知而不慍、不亦君子乎」とは、孔子が自分を君子と述べたものではないが、魯の政治改革に失敗し、十余年にわたって諸国を遍歴、結局はどの諸侯にも容れられなかったばかりか、生命の危機に直面したこともある孔子の人生に重ね合わせれば、自ずと伝わってくるものがあろう。
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