『史記』「項王の最期」注解2
(内容:『史記』「項王の最期」の文法解説。その2。)
『史記』「項王の最期」注解2
■原文(1)
乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。(2)
独籍所殺漢軍数百人。(3)
項王身亦被十余創。(4)
顧見漢騎司馬呂馬童、曰、「(5)
若非吾故人乎。」(6)
馬童面之、指王翳曰、「(7)
此項王也。」(8)
項王乃曰、「(9)
吾聞漢購我頭千金、邑万戸、(10)
吾為若徳。」(11)
乃自刎而死。■訓読乃ち騎をして皆馬を下り歩行し、短兵を持ち接戦せしむ。独り籍の殺す所の漢軍は数百人なり。項王の身も亦た十余創(じふよさう)を被る。顧みて漢の騎司馬呂馬童(りよばどう)を見て、曰はく、「若(なんぢ)は吾が故人に非ずや。」と。馬童之に面し、王翳(わうえい)に指して曰はく、「此れ項王なり。」と。項王乃ち曰はく、「吾漢の我が頭(かうべ)を千金、邑万戸(いふばんこ)に購(あがな)ふと聞く、吾若(なんぢ)の為に徳せん。」と。乃ち自刎(じふん)して死す。■訳そこで奇兵にみな馬を下りて歩行させ、短い武器を持ち接近戦させた。籍ひとりが殺した漢軍(の兵士)は数百人である。項王の身もまた十数箇所の傷を負った。振り返って漢軍の騎司馬呂馬童を見て、「お前は私の旧友ではないか。」と言った。馬童はこれに向かい、王翳に指さして「これが項王だ。」と言った。項王はそこで「私は漢軍が私の首を千金、一万戸の村で買い取ると聞いているが、私はお前のために徳を施そう。」と言った。そして自分で首をはねて死んだ。(1)【乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦】「乃」は2の(17)で述べた。
「令騎皆下馬歩行持短兵接戦」は兼語文。
主語「(項王)」+謂語「令」+賓語「騎」という文と、主語「騎」+謂語「下」+賓語「馬」,謂語「歩行」,謂語「持」+賓語「短兵」,謂語「接戦」の2つの文が、兼語「騎」を介して1文になったもの。
つまり、「項王が騎兵に命令し」、「その命令された騎士が下馬して歩行し短兵を持って接近戦をする」という構造になる。だから使役の意味になるわけ。
「短兵」は、短い武器。刀剣をいう。
「長兵」に対する語だが、長兵は矛などの長い武器を指すことも、弓矢を指すこともある。
ここでは騎上から攻撃する矛などの長道具に対するもの。(2)【独籍所殺漢軍数百人】「独籍」は「項籍ひとり、項籍だけ」の意。
「独籍所殺漢軍」は、「項籍ひとりが殺した漢軍」の意。
「籍殺漢軍」であれば「項籍が漢軍を殺す」という意味になる。
結構助詞「所」は「殺」の対象を表す名詞句を作るので、対象をソレとすれば、「所殺」は「ソレを殺すソレそのもの」を表すことになる。
従って、「籍所殺」は、「項籍のソレを殺すソレそのもの」で「項籍が殺す対象」の意の名詞句になる。
これが「漢軍」を連体修飾するので、「籍所殺漢軍」とは「項籍が殺す対象である漢軍」の意となる。
「所」が後の動詞の他動性の客体を表す時、「所AB」が「BをAする所」(BをAすること)とは絶対になり得ない。
「所」が表す客体とBが重複してしまうからだ。
「所AB」が「BをAする所」である場合は、「所」はBとは異なる性質の客体を表す時に限られる。
たとえば「所与桃」は、「所」が他動性の客体を表す場合、「与ふる所の桃」と読んで「ソレを与えるソレである桃」すなわち「与える桃」という意味になる。
しかし、依拠性の客体を表す場合は「桃を与ふる所」と読んで「ソレに桃を与えるソレ」すなわち「桃を与える人」という意味を表すわけだ。
したがって「所AB」の形をとる時は、「所」がどんな客体を表しているのかを見極めなければならぬ。(3)【項王身亦被十餘創】「亦」は、2の(4)で述べた。
ここでは、漢軍も数百人項王に殺されたが、項王も十数箇所の傷を負ったと同じ事情であることを示す。(4)【顧見漢騎司馬呂馬童】「顧」は、後ろを振り返るの意。
「騎司馬」は、騎兵隊長。(5)【若非吾故人乎】「若」は二人称代詞、あなた、お前。
牛島徳次『漢語文法論(古代編)』には
「『二人称』は,話し手が聞き手を直接さし示すもので,史記においては,話し手が聞き手よりも社会的あるいは主観的に優位にある場合に限って用いられる。」
とある。
「故人」は、旧友、老友の意。
この文、否定副詞「非」によって否定された文末に疑問の語気詞「乎」を置き、「Aではないか」と、推測を表す形式。
多くの場合、おそらく「Aである」「Aする」という予想に基づくものなので、反語の用法と考えることもできる。
ここでも項王は、おそらく自分の旧友だろうという推測のもとに問いかけたもの。
「若非吾故人」なら「あなたは私の旧友ではない」という否定の判断文だが、文末に語気詞「乎」を置くことで「~ではないか?」と相手に問いかけることになる。
「非A乎」の形は、Aは否定副詞「非」の修飾を受けるので、名詞または名詞句になる。
訓読では、「Aニあらザルカ」と読まれることもまれにある。(6)【馬童面之、指王翳曰】この箇所、「面」の解釈に問題がある。
どの教科書も疑問を示しつつも「面之」を「呂馬童は(恥じ入って)顔を背け」だの「馬童はこれ(項王)から顔を背け」だのと訳しているのは、反訓によるという説に従うものである。
つまり、『史記集解』に「張晏曰、『以故人故、難視斫之、故背之。』如淳曰、『面、不正視也。』」(張晏は「旧友であるために、見て斬りにくい、ゆえにこれに背を向けた。」という。如淳は「面とは、正視しないのである」という。)という説が引用されていることに基づく。
『集解』の筆者裴駰も、引用した説も「反訓」と述べているわけではない。
反訓とは、たとえば「乱」を「治」に解するように、文字を本義と真逆の意味に用いる用法をいう。
漢文では特有のレトリックであるかのようにまことしやかに説かれるのだが、東晋の郭璞に始まるこの反訓説について、反訓と認められた例が、本当に反訓といえるものであるかどうかは疑わしい。
たとえば、『論語・泰伯』の「武王曰、『予有乱臣十人。』」(武王が「私には治めてくれる十人の家臣がいる。」と言った。)の例は、『尚書・泰誓中』にある同文を引用したものだが、「乱」が治めるの意味で用いられていて、いかにも反訓である。
しかし、白川静は、
「旧字『亂』は、その左側の部分『𤔔』(らん)と右側の部分『乙』(いつ)から成り、旧字は亂に作り、𤔔(らん)+乙(いつ)。
𤔔は糸かせの上下に手を加えている形で、もつれた糸、すなわち乱れる意。
乙は骨べら。
これでもつれを解くので、亂はおさめる意。
『亂(をさ)む』とよむべき字である。
〔説文〕十四下に『治むるなり。乙に從ふ。乙は之れを治むるなり』という。
〔段注〕にその文を誤りとし、紊乱の字であるから「治まらざるなり」と改むべしとする。
字形からいえば、𤔔が乱れる、亂が治める意の字。
のち亂に𤔔の訓を加え、「乱る」「治む」の両義があり、反訓の字とする説を生じたが、一つの文字が、同時に正反の二訓をもつということはない。」(『字通』平凡社1984)
と述べている。
また、藤堂明保氏も、𤔔を「もつれる」の意と解し、
「乱の字は,右側に乙印をそえているが,これは軋アツと同義で,上からジッと抑える意味を表す。
つまり,もつれをおさえて解決する意を加えたもので、<説文>がこの字を「治なり」と解したのは正しい。」(『漢字語源辞典』學燈社1965)
と説明して、基本的には白川氏と同様の解釈である。
さらに、黄生の『義府』巻下・面縛の条では、
「古は『治』の字はもと『乿』に作った」
として、いわゆる反訓による解釈を
「思うに字義に暗い俗説である。」
とする。
そもそも字が違うというわけだ。
このように諸説あり、反訓の代表例とされる「乱(亂)」自体が、果たして本当に反訓なのか疑わしくなる。
先に示した『集解』の説、「張晏曰、『以故人故、難視斫之、故背之。』如淳曰、『面、不正視也。』」について、王叔岷は『史記斠証』で、この張晏の注が、『太平御覧』巻87で「難親斫之」(みずからこれを斬りにくく)になっていることを指摘し、字形が似ているために、後の如淳の注の「視」につられて誤ったものとする。
『漢書』注に顔師古が引用した張晏の注も「親」に作る。
「見て斬る」ではなく、「自分で斬る」の意だったというわけだ。
顔師古は、張晏と如淳の注に対して、
「如淳の説は誤っている、面とはこれに背くことをいい、面と向かわないのである。
面縛も背いて縛る。
杜元凱はただその顔を見るとするが、誤っている。」
と述べている。
面縛というのは投降儀礼で、勝利者に降伏して、後ろ手に縛って顔だけを見せる行為だから、この顔師古の注は誤っていると思う。
この「面」は顔の意で、背くの意ではなかろう。
しかしそうなると、「馬童面之」の「面」を「背く」と解するのは根拠の示されない張晏の説だけとなってしまう。
事実として、王先謙は『漢書補注』で
「劉攽は、『これに面すとは、ただこれに向かうである。』という。
沈欽韓は、『劉攽の説は正しい。礼記・少儀に、道で(尊長に)会い、(尊長が自分を)見れば面とむかって挨拶をする、といい、鄭玄が、隠れることができるなら隠れる、と注しているのは、面を向かうとするのである、また偭にも作る。
説文解字に、偭は、郷(む)かうである、とある。
礼記・少儀に、酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける、とある。』という。」
と述べている。
劉攽は北宋、沈欽韓は清の人。
また、瀧川資言の『史記会注考証』は、清の洪頤煊の説を引用している。
「洪頤煊は『面とは、向かうである。
向かってこれを見て、はっきり項王であることを知り、そこで王翳に指さしたというのである。
礼記・玉藻に、ただ君だけが酒樽に面と向かう、とあり、鄭玄は、面は郷と同じである、と注している。
史記・田完世家に、淳于髠は説き終わり、走り出て門に至って、その僕に向かった、とある。
面とはつまり郷(む)かうである。』という。」これらの説はみな「面」を反訓とせず、「向かう」の意とする。
王叔岷は『史記斠証』で、「面」を「向かう」の意とする諸説を紹介し、最後に歴史学者の陳槃(槃庵)の説を引用する。
「槃庵氏はいう、『黄生の義府:上下の文の語意を詳らかにするに、項王はこの時、包囲の中にいたが、馬童からまだ遠く離れていたので、顧見(振り返り見る)云々という。
時に項王たちは、なお二十数騎おり、まだどれが項王であるかは見分けられず、その呼ぶ声によってはっきりこれを見て、その後王翳に指示する云々である。
面之とは諦視する(はっきり見る)ことをいう。』」
これは、陳槃が『義府』を引用したもので、馬童が離れた項王から呼びかけられ、間違いなく項王だと確認するために、直視したと解したものだ。
さらに『義府』の説明は続く。
「『あるいは、古人は反訓が多いので、背を面というのは、治を乱とし、馴を擾とし、香を臭というように、その例は見られるともいう。
これはおそらく字義に暗い俗説である。
古は治の字はもと乿に作り、馴擾の字はもと㹛に作り、臭は香気の総称であり、その腐った臭いは殠に作る。
後の人がこのように誤って書き伝えたが、どうして古人の意図であったろうか。
もし面を背と読むなら、偭である。
さらにこの時漢は項羽を台の上の肉のように見ていた,なおどこにはばかって背くなどと言おうか。(義府・巻下・面縛の條)』」
これは『義府』による反訓そのものの否定である。
これらについて、陳槃は次のように述べる。
「私が礼記・少儀を案ずるに、酒樽と酒壺はその鼻を前に向ける、とあり、鄭玄の注に、鼻は面の中にあり、人に向かうをいうのだ、とあり、正義に、酒樽と酒壺にはみな面があり、面には鼻がある、鼻は尊者に向けるのがよく、ゆえにその鼻を前に向けるというのだ、とある。
面を向かうと読むのは、これらもそれである。
また通じて偭に作るのは、段氏の説文注にも詳しく述べられている。
項羽本紀のこの文については、向かうと読むのはより適切な解釈である。」
このように、『礼記』の例を引いて、「面」はやはり「背く」の意ではなく、「向かう」の意であろうと結論づけている。
『義府』に指摘されていた「偭」の字について、加藤常賢は『漢字の起源』(角川書店1970)で、興味深いことを述べている。
「面」の字が「背」の意に使われるのは「偭」がその意の本字であると言われているのを踏まえ、『説文解字』に「偭、郷也」とあるのに対して、
「根本的に言って、説文の『郷』(嚮)の上に脱字があると思う。
私は『面の声』は『臱(へん)』の意を表わしていると思う。
『臱』の音は『傍』あるいは『左右両側』の意を表すと思う。」
とした上で、「偭」の字義を次のように述べる。
「『人』の意符と『面』の音の表わす『旁』あるいは『左右両側』の意味を加えると、『人体の旁』、あるいは『人体の両側』の意味である。
これを項羽列伝の『馬童面之』と言うことばに当てはめると、『馬童が体を傍に向けた』という意味になり、『面縛』と言うことばに当てはめると、『体の両側に手を縛してぐるぐる巻きにする』という意味になる。
手を両側で縛れば、璧を手に持って献ずることができないから『面縛銜璧(面縛セラレテ璧ヲ銜ム)』と言うことになるのである。
『偭』字の意味が以上誤りないとすれば、前に挙げた史記・漢書の『偭』字の解釈のうち、如淳の『面謂不正視也。(面ハ正視セザルヲ謂フなり。)』と言うのが正しく、『背』と解する張晏・顔師古説は、体を傍に向けた意味を強く解釈して『背を向けた』と解釈したにすぎない。
以上の考察に誤りがなければ、説文の解釈は『傍郷(嚮)』とあるべきであると思う。
「旁」音と「面」音は声転にすぎない。」
この説は「面」は「偭」であるという条件と、「偭、郷也」という説文の説明を「偭、傍郷也」の脱字であるという条件の二つをクリアしない限り、あくまで仮説の域を出ないものだと思うが、興味深いものではある。
そもそも、「馬童面之」を、「馬童は顔を背け」と解するのは、項羽から「お前は旧友ではないか」と言われて、呂馬童もさすがに恥じ、顔を背けたのであろうと解釈したものであろう。
『集解』が引く張晏や如淳の解釈は、その延長上にあり、いわば馬童の気持ちを推し量ったものになる。
つまり、文脈上、あるいは場面の状況から、そう解釈した方が自然に思われるからというわけだ。
しかし、実際馬童がそんな気持ちを抱いた証拠はどこにもない。
司馬遷は「背之」ではなく「面之」と表現したのである。
「面」は対面する、向かうという意味なのに、馬童の気持ちを忖度して、それをわざわざ真逆の意味で解した張晏の説を根拠づけるために、反訓という根拠の疑わしいレトリックを持ち出した。
しかも、管見によれば「面」を明確に背くの意で解する例はないのにもかかわらずだ。
顔師古の注も加藤常賢の仮説が成立しない限りは、有効な説明にはなっていない。
私見ながら、今のところ、この「馬童面之」の「面」は、文字通り「向かう」の意だと思う。
文脈から強引に字義を論じたり、文法を論じるのは、危険なことであろう。 (7)【此項王也】「此」は近称の代詞。
「也」は、文末でも用いられる時、確認(断定)や肯定的判断、原因・目的・動機を述べる語気を表す。
ここでは「~だ」「~だぞ」の意。
「これが項王だ」と判断した語気を表すのだ。(8)【項王乃曰】この「乃」については、2の(17)で述べた。
旧友であるにも関わらず、「此項王也」と述べた呂馬童の非道な態度を受けて、「そこで」言ったわけだ。(9)【吾聞漢購我頭千金、邑万戸】この文、主語「吾」+謂語「聞」+賓語「漢購我頭千金邑万戸」の構造。
さらに賓語は、主語「漢」+謂語「購」+賓語「我頭」+賓語「千金邑万戸」の構造をとる。
この2つの賓語は、「我頭」が他動性、「千金邑万戸」が依拠性の賓語になる。
いわゆる双賓文とは異なる。
「邑万戸」は、一万戸の領地。(10)【吾為若徳】「吾」については2の(18)、「若」については(5)で述べた。
「吾」も「若」も聞き手に対して優位にある場合に用いられる傾向のある字。
「為」は、動作行為が利益を与える関係を表す介詞。
「~のために」の意。
「徳」は、恩義、恩恵を表す名詞だが、介詞句「為若」の修飾を受けて、動詞のように働くことになるのだ。
「徳せしめん」などと使役で読んでいる本もあるが、別にその必要はあるまい。
恩恵を施そうの意でよい。
この文、主語「吾」+介詞句「為若」+謂語「徳」の構造。(11)【乃自刎而死】 この「乃」は、項王自らが述べた「吾為若徳」を受けて、「そこでどうなるかというと」の意で、後句を導く。
「自刎而死」は連動文。前の謂語「刎」が後の「死」の手段を表す関係である。
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