『史記』「項王の最期」注解1

(内容:『史記』「項王の最期」の文法解説。その1。)

『史記』「項王の最期」注解1

■原文
(1)於是項王乃欲東渡烏江。(2)烏江亭長檥船待、(3)謂項王曰、「(4)江東雖小、地方千里、衆数十万人、亦足王也。(5)願大王急渡。(6)今独臣有船、漢軍至、(7)無以渡。」(8)項王笑曰、「(9)天之亡我、(10)我何渡為。(11)且籍与江東子弟八千人渡江而西、(12)今無一人還、(13)縦江東父兄憐而王我、(14)我何面目見之。(15)縦彼不言、(16)籍独不愧於心乎。」(17)乃謂亭長曰、「(18)吾知公長者。(19)吾騎此馬五歳、(20)所当無敵、(21)嘗一日行千里、(22)不忍殺之、(23)以賜公。」

■訓読
是に於て項王乃ち東のかた烏江(うかう)を渡らんと欲す。烏江の亭長船を檥(ぎ)して待ち、項王に謂ひて曰はく、「江東小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。願はくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り、漢軍至るも、以て渡る無し。」と。項王笑ひて曰はく、「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡らんや。且つ籍(せき)江東の子弟八千人と江を渡りて西するに、今一人の還る無く、縦(たと)ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありて之に見(まみ)えん。縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧(は)ぢざらんや。」と。乃ち亭長に謂ひて曰はく、「吾公の長者なるを知る。吾此の馬に騎(の)ること五歳、当たる所敵無く、嘗て一日に行くこと千里なるに、之を殺すに忍びず、以て公に賜(たま)ふ。」と。

■訳
この時項王は東へ進み烏江を渡ろうとしていた。烏江の宿場長は船を用意して待っており、項王に、「江東は小さいですが、土地は千里四方、民は数十万人、(それでも)また王であるに十分です。(どうか)大王様が急いでお渡りになることを願います。今ただ私だけが船をもっていて、漢軍がやって来ても渡る術はありません。」と言った。項王は笑って、「天が私を滅ぼす時に、私はどうして渡ろうか。それに私は江東の若者たち八千人と河を渡って西に向かったが、今一人の帰る者もなく、たとえ江東の父兄憐れんで私を王としても、私はどの面下げて会おうか。たとえ彼らが(何も)言わなくても、私はどうして心に恥じないだろうか。」と言った。そこで亭長に「私は貴殿が徳のある御仁だとわかる。私はこの馬に五年乗っているが、向かう相手に敵はなく、かつて一日に千里行ったこともある、これを殺すには忍びない、これを貴殿に下賜する。」と言った。

■注
(1)【於是項王乃欲東渡烏江】
「於是」は、もともとのなりたちが介詞句であるため、「この時」と、動作や事情が発生する時点を表すのが本義である。
また転じて、前の内容を受けて、「そこで」と順接の関係であることを示す連詞としての働きもある。
「於是(主語)乃~」の形をとる時は、たいていの場合後者で説明される。


「欲」は、「~しようとする・~したがる」の意の助動詞。
ここは「項王が東の方角へ烏江を渡ろうとした」の意だが、従来、江東に逃れて再起を図るつもりであった、あるいは望郷の念に駆られてのことであるとして、項羽が自らの意志で「渡ろうとした」と解されてきた。

しかし、これに対して、青木五郎は『なぜ項羽は烏江を渡らなかったのか』(数研国語通信第3号2004)において、「於是項王乃欲東渡烏江」の文について、
「項羽の烏江を渡ろうとする意志や願望を表したものではなく、項羽の置かれている状況を客観的に表現したものと解することはできないかと考えている。
つまり、『戦いの罪』でないことを証明するために、東城や山東での搏撃戦を演じて来て、気がついてみたら烏江のほとりまで来ていた(今にも烏江を渡ろうとする状況にあった)ことを、司馬遷が客観的に描写した一文と解することができないか、ということである。」

と、通説とは異なる説を披露している。

そして、『史記』の中で「欲」の字が、
「主体の意志や願望を表すものでなく、主体の行為や状況を客観的に描写するために用いられている」
と捉える方が妥当な例を挙げている。
これは、項羽がすでに死を決していて、
「天命の己れを離れたことをはっきりと自覚しており、その自覚は烏江を前にしても何らゆらぐことはなかったものと考えたい」
という氏の項羽観に基づくものである。
1つの見解として紹介しておく。


「東」は方位詞で名詞に準じるが、ここでは謂語「渡」を連用修飾し、「東の方へ」の意。
中国ではこれを名詞が副詞に活用すると説くが、品詞そのものが変わるとしなくとも、副詞の位置に置かれることで、副詞のように働いていると考えればよい。

「烏江」は、烏江浦のことで、渡し場の名。現在の安徽省和県の北東40里の長江西岸にある。

(2)【烏江亭長檥船待】
主語「烏江亭長」+謂語「待」が基本の構造。
「檥船」は謂語「待」を連用修飾する句。船を用意した状態でということ。


「亭長」は、秦・漢の時代の行政単位「亭」の治安維持や宿場の管理をした役職。10里ごとに1亭を設けて、亭長1人を置いた。
10亭で1郷になり、「亭」は行政単位の最小である。


「檥船」は、『集解』に、「附船著岸也。」(船を岸に着ける。)とする孟康の説と、「南方人謂整船向岸曰檥。」(南方の人は船を整えて岸に向かわせるのを檥という。)という如淳の説を引く。
また、『索隠』は、孟康らの説を文意から解釈したものと退け、鄒誕生本(史記音義のことか?)に「漾船」(船を浮かべる)に作っていることを指摘している。
王叔岷は『史記斠証』で、『初学記』や『太平御覧』がみな「艤」に作ると指摘している。
諸説あるが、つまり、いつでも渡れるように船を用意していたということ。


(3)【謂項王曰】
「謂」については、前稿「『鴻門の会』・語法注解」で述べたが、再掲しておく。
「謂」の用法は多く、「告げる」「批評する」「名付ける」「思う、考える」など様々な意味を表すが、ここでは「謂A曰B」(Aに(告げて)Bと言う)の意味で用いられている。
その意味で「謂」はあたかも介詞のようにも見えるが、「曰」を用いない例もあり、やはり動詞であろう。
「謂」の用法については西田太一郎『漢文の語法』(角川書店1980)に詳しいが、それによれば、Bが短い内容であれば、「謂AB」(AにBと謂ふ)の形もまれにとることがある。
『詩経・小雅・出車』の「謂我来矣」(私に来いという)などがその例。
「謂之曰」(彼に言う)と表現することもある。


(4)【江東雖小、地方千里、衆数十万人、亦足王也】
「江東雖小」は「江東は小さいが」という譲歩表現。
「雖」は譲歩の仮定(たとえ~ても)、または譲歩の確定条件(~ではあるが)を表す連詞だが、ここでは後者。
複文の前句で用いられ、文の先頭または主語の直下に置かれる。
「雖」の前に主語が置かれる時は仮定ではなく確定を表すと、まことしやかに説かれることがあるが、必ずしもそうとは限らない。
『新序・義勇』に「吾雖死、不子従也。」(私はたとえ死んでも、あなたには従わない。)の例があるが、主語「吾」が「雖」の前に置かれていても、明らかに譲歩の仮定を表している。


「地方千里」は、「地方、千里」ではなく「地、方千里」。
その土地は千里四方の意だ。
当時の1里は、415.8m、1000里だと415.8kmで、千里四方は172,889km2だが、もちろん十分な広さだというに過ぎない。


「亦」は、行為や事情が前と同じであるか繰り返されるかを表す重複副詞。
ここでは天下といわず江東でも、また王たるに十分だと、事情が同じであることを示す。

「足王」は、「王であるに十分だ」「王であり得る」という意味。
「足」は可能の助動詞だ。
当然後に動詞や動賓構造をとるのだが、ここでは「王」という名詞が置かれている。
これは、「王となる・王である」という叙述性を帯びて動詞のように働いているのだ。


「也」は、確認(断定)や肯定的判断の語気を表す語気詞。


(5)【願大王急渡】
謂語「願」+賓語「大王急渡」の構造。
さらに賓語は、主語「大王」+謂語「急渡」の主謂賓語になっている。


「願」は、助動詞として働く時は、その賓語に動詞や動賓構造をとる。
たとえば、『孔子家語・致思』の「願受教於夫子。」(ご教示を先生に受けたいと思います。)などがその例で、自分の希望を表す。
ここでは「願」の後に他者である「大王」をとっているので、助動詞ではなく動詞である。
その賓語「大王急渡」は、「大王が急いで渡ること」という名詞句になっているのだ。
訓読では「願はくは大王急ぎ渡れ」と読まれているが、構造的にはあくまで「(私は)大王が急いで渡ることを願う」である。


(6)【今独臣有船】
「独」は、限定を表す範囲副詞。
主語A+謂語Bの文の先頭に置かれる時は、謂語Bの動作行為が主語Aだけに限定されることを表す。
すなわち「独AB」(独りAのみBす)である。
「私だけが船をもっている」の意。
しかし、訓読では「独りABするのみ」と読まれることもある。
この例の場合なら、「独り臣船あるのみ」だ。
そう読んでも通るが、少なくとも語法的には「私が船をもっているだけだ」という意味ではない。

「臣」は本来普通名詞だが、自称の人称代詞として用いられ、聞き手に対して話し手の謙譲の気持ちを表す。
「わたくし」の意だ。


(7)【無以渡】
「無以」は、「~する手立てがない」の意。
客体を表す名詞句を作る結構助詞「所」を入れて、「無所以~」(以て~する所無し)の形にして考えると意味がわかりやすくなる。
つまり、「所」を客体「ソレ」だとすると、「所以~」(以て~する所)は「ソレによって~するソレ」で、「所以渡」(以て渡る所)は「ソレによって渡るソレ」になる。
その存在が「無」によって否定されるわけだから、「ソレによって渡るソレがない」で、「渡る手立てがない」という意味になる。
「無以渡」を「無所以渡」としてみたのは、介詞「以」の賓語(客体)をそれと限定できないものにするためだ。
この文、「無以船渡」の省略形ではない。
船であろうが何であろうが、河を渡るための手立てである「ソレ」がないわけだ。


(8)【項王笑曰】
自嘲の笑いである。
田中謙二は『史記の〈笑い〉』(東方学報41,1970)において、『史記』に限らず、それに先行する『春秋』三伝や『国語』、『戦国策』において、歓喜の笑いが見えず、
「嘲笑・冷笑を意味して用いられている。」
とし、さらに『史記』に登場する人物たち自身の笑いを分析して、
「〈笑〉という動詞の具象性を利用しつつ、それを誘發する背後の真理をみごとにえがきだし、われわれの脳裡に〈笑い〉の鮮明なイメジを燒きつけるのである。」
とする。

そして、この箇所の項王の笑いについて、
「ここにみえる項羽の〈笑い〉もやはり〈自嘲の笑い〉である。
だが、さきの韓信の場合のように凄慘までは感ぜられず、したがって、イメジも鮮冽を缺くのは、亭長の好意を感謝する愛想笑いの要素を含むためであろうか」

と述べている。

韓信、項羽、荊軻、田光、伍子胥に見られる「笑」について、田中は、
「司馬遷の場合、これらの〈自嘲の笑い〉が鮮冽であるもう一つの理由が、諸例に共通して指摘される。
すなわち、ここにあげたすべての例にあって、笑う主體がみな悲運の英雄だという點である。
かれらの多くは歷史のひのき舞臺において、一世を震駭させる活躍を果たしながら、その末路は申しあわせたように悲慘をきわめた。
かれらの傳記がいずれも『史記』の雄篇に數えられているように、司馬遷の筆はそこに至ると異常なまでに熱氣を帶びる。
むろん、それは司馬遷自身が體驗した悲運とも無緣ではない。司馬遷ははげしい情熱をたぎらせつつ、對象にえらんだ英雄たちを、かれらの悲慘な最期にちかい段階で凄慘な〈笑い〉をわらわせて、悲劇の主人公のイメジを强調したようにおもわれる。」

と指摘している。


(9)【天之亡我】
「天亡我」であれば「天が私を滅ぼす」の意の文だが、この主語「天」と謂語「亡」の間に結構助詞「之」を置くことで、文の独立性を取り消して、「天が私を滅ぼすこと」の意の名詞句を作る。
この働きにより、主語や謂語、賓語などの文の1成分にしやすくなるわけだ。
この名詞句が、前後に2つの句からなる文の前半に用いられて、後半の状況が出現したり行為が行われる時、つまり「AがBする時」「AがCをBする時」という意味を表すことがある。
これは「之」により構成された名詞句が、謂語または文全体を副詞的に連用修飾している用法だと考えるとわかりやすい。
ここでは、「天が私を滅ぼす時に」の意だ。


(10)【我何渡為】
従来、「我何ぞ渡るを為さん」と訓読されてきた句だが、近年は教科書でも「為」を反語の語気詞として、「我何ぞ渡らんや(為)」と読まれることがある。
中国の語法学でこのような「為」を「乎」などと同様の用法とする説が行われているのを受けたもので、本邦の漢和辞典にもその記載が見られる。
このことについては、拙前稿「『史記』「鴻門の会」・語法注解」の7の(12)「何辞為」の項で述べた。
長文になるので再掲しないが、参照されたい。
牛島徳次の、「何―為」は「何」が状語で、「―」が謂語動詞「為」の賓語とし、意味的には「なぜ―をなすのか」と解する説が、私的には妥当かと思うが、ここでも、現在主流の説により、とりあえず反語の語気詞としておく。


(11)【且籍与江東子弟八千人渡江而西】
「且」は、「積み重ねること」を原義とする字で、その義を引申して連詞となった。
ここでは、前句や前文で述べたことにさらに内容を付け加える、累加の働きをしている。
天が自分を滅ぼす時に、河を渡ることなどできないということに加えて、さらに別の事情もあることを述べるわけだ。

「籍与江東子弟八千人渡江而西」は、主語「籍」+謂語「渡」+賓語「江」,謂語「西」の連動文が基本構造。
その2つの謂語を介詞句「与江東子弟八千人」が連用修飾しているのだ。


介詞「与」は、後に名詞や名詞句を伴って介詞句を構成し、謂語の前に置かれて連用修飾する。
謂語に対して動作行為を共にする対象や、関与する対象、比較の対象、動作の目的などを示し、また、受身の文に用いられて動作主を示すこともある。
ここでは「江東子弟八千人」を介詞の賓語とし、動作行為を共にする対象を表している。


「江東子弟八千人」について。
項羽の末の叔父、項梁は会稽郡(現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近)の郡守の殷通を殺して、会稽郡所属の各県を配下に治め、精兵八千人を得た。
広陵の人、召平が、陳王(陳勝)のために広陵を手中に収めようとしていたが、まだ実現できないうちに、陳勝は秦軍に敗れた。
召平は秦軍がやってくるのを恐れて、項梁を楚王の上柱国に任命し陳勝の命といつわって、「江東はすでに平定した。急ぎ兵を引いて秦を撃て。」と命じた。
『史記・項羽本紀』には、それを受けて、「項梁乃以八千人渡江而西。」(項梁はそこで八千人をひきいて長江を渡って西進した。)とある。


「西」は(1)の「東」と同じく方位詞で名詞に準じるが、ここでは動詞のように働いている。
つまり、「西に向かって進む」ということだ。
江東の西、正確には北西に秦の国があるので、このように言う。
西に向かって秦を倒しに行ったという意味。


(12)【今無一人還】
「今」は時間詞で名詞に準じる語。
文字通り「いま」の意だが、このような用法の場合は連詞に分類されることもある。
すなわち、複文の前句で用いて「今かりに」の意味を表したり、前に述べられた状況と異なる事態になったことを述べる時に「ところが今」などという意味を表すことがあるからだ。
ここは後者にあたる。
中国の語法学では、その語の働きに応じて品詞を与える傾向があるので、このような煩わしい品詞の区別をするのだ。
とはいえ、「今」が現在を表すがゆえに、言語環境でこれらの連詞的な働きをすることもあるのであって、働きを知っておくことは必要だが、あまり品詞名にこだわる必要もあるまい。

「無一人還」は、存在の兼語文。
「無一人」(謂語「無」+賓語「一人))と「一人還」(主語「一人」+謂語「還」)の2文が兼語「一人」を介して1文になったもの。
すなわち「一人が存在せず、その存在しない一人が帰る」だから、「一人の帰るものもいない」という意味になるのだ。


「還」は、もといた場所に戻るの意の動詞。


(13)【縦江東父兄憐而王我】
「縦」は連詞、譲歩の仮定条件「たとえ~ても」の意を表す。
譲歩とは、一歩譲った条件を認めても、結果は変わらないという表現をいう。
複文の前句の先頭、もしくは主語の直下に置かれて譲歩した仮定を表し、後句で変わらぬものを示す。
後出する「雖」が「~だが」という譲歩の確定条件をも表すのに対して、「縦」は確定条件は表さない。


「江東父兄」は、(11)の「子弟八千人」の父兄。
親や兄弟、村の年長者を指す。


「而」は連詞。この連詞をはさんで、「憐」(同情する)と「王」(王とする)が連動文をなす。


「王」は名詞だが、賓語「我」をとることで、動賓構造の型から「王となる」という動詞のように働いている。


(14)【我何面目見之】
文の構造は、主語「我」+謂語「見」+賓語「之」。
この謂語を「何面目」が「どんな面目で」の意で連用修飾しているのだ。


「何」は疑問代詞で、名詞「面目」を連体修飾する定語になっている。
「どんな・どういう」の意。


「面目」は、顔から転じて、体裁の意だが、この「何面目」は、まさに「どの面下げて」の意で、合わせる顔がないわけだから、顔と解してもよかろう。


「見」は、「まみユ」と読んではいるが、訓読上のことであって、別に謙譲の意はもたない。
「会う」の意。


「之」は代詞だが、「此」とは違う。
また、ここでは「彼ら」の意だが、「彼」とも違う。
「此」は近称の代詞であって、それ自体が「これ」とか「この人」という実質的な意味をもつ。
ところが、「之」には実質的な意味はなく、前に述べられた「江東父兄」があってはじめてそのもつ意味が補充される。
これを松下大三郎は、代詞とせずに独自に寄生形式名詞と名付けて、
「寄生形式名詞は自己の補充語としてでない他語に寄生して自己の形式的意義を實質化する形式名詞である。
例へば『花、春翫之、月、秋賞之』の『之』は形式名詞である。
『之』そのものは何等の實質的意義は無いが、『之』に對する專屬の補充語は何處にもない。
『翫之』は花を翫ぶのであって『之』は上の『花』に由つて意義が實質化されるが、『花』は本來『春翫之』に対する題目語であつて『之』の補充語ではない。
それを『之』が勝手に利用して自己の補充語にするのである。こういふのを寄生といふ。」(『標準漢文法』紀元社1927)
と述べている。

形式的な語だから、ここで「見之」と言えるのであって、「我何面目見」とは言えないところを、賓語の位置の穴埋めに使えるのである。
これを「我何面目見此」と表現すれば、語法的には成り立っても、「此」の実質性が邪魔をする。
「どの面下げて会おうか」を、ことさらに「どの面下げてこれに会おうか」だの「彼らに会おうか」などと言えば、くどいであろう。
誰に会うのかはつい数語前に述べたばかりだからだ。


(15)【縦彼不言】
「縦」の用法は、(13)で述べた。

「彼」は代詞。「江東父兄」を指す。


(16)【籍独不愧於心乎】

「籍」は項羽の名。
生まれた時につけるもので、成人してからつける字(あざな)とは違う。
父母や年長者、師などは名を呼び、自称でも用いるが、一般に他者が名を呼ぶことは無礼にあたる。
いわば他者と交わるために用いるのが字である。
『礼記・曲礼上』に「男子二十、冠而字。父前子名、君前臣名。女子許嫁、笄而字。」(男子は二十歳で、元服して字をつける。父の前では子は名をいい、主君の前では臣は名をいう。女子は婚約すれば笄(こうがい)をさして字をつける。)とある。
「男子二十、冠而字」について、鄭玄は「成人矣、敬其名。」(成人となり、その名を敬う。)と注す。
名は親が与えるものであり、尊ばねばならないものだからであろう。


「独~乎」については、「独」を反詰の語気副詞と説明するのが現在の主流。
『史記・廉頗藺相如列伝』の「相如雖駑、独畏廉将軍哉」(私は愚かではあるが、どうして廉将軍を恐れたりしようか)など、用例は多い。
この場合、「豈」と同義と説かれる。
「独」は他と関わりなく単一・単独であることを表す範囲副詞だが、その意味から「これだけが特別に・自分だけが特別に」という意味に広がり、「(自分だけが特別に)どうして~」という反語の意味に転じたと考えるのであろうか。

しかし、「独」を反語の語気副詞とする考え方には異論がないわけではない。
松下大三郎は
「『獨』を『なんぞ』と讀む場合が有るが、私は其れは意譯又は誤譯であらうと思ふ。
『獨』は下の動詞を反轉態たらしめる力は有つても自己に疑問の意はなからうと思ふ」
として、反語に解する「独」の例を挙げた上で、
「これらの『獨』を『なんぞ』と讀む人が有るが、私は『獨』は『ひとり』であつて特別扱ひをする意で自分だけが特別に、其れ一つ特別にといふ意から下の動詞が反轉態になるものだらうと思ふ。」(『標準漢文法』)

と述べている。

いったい反語の語気副詞というものは、句末に語気詞を伴わなくても反詰を表しうるものだが、今のところ明確に「独」単用で反詰と見なし得る例は見いだし得ず、あるいは氏の見解が妥当であるのかもしれぬ。
となれば、「縦彼不言、籍独不愧於心乎」は、「よしや彼らが言わずとも、私一人だけは心に恥じないか、いや恥じずにはおれぬ」の意になる。
この場合、「独」は主語「籍」に関係していて、謂語の「不愧」を修飾しているのではない。
1の(6)でも述べたように、こういう用法は「皆」にもある。「猿がみな柿を食った」といえば、「すべての猿が柿を食った」とも「猿がすべての柿を食った」とも解せるが、漢文にも同じ用法があるのだ。


「不愧於心乎」は、謂語「不愧」+介詞句「於心」+語気詞「乎」の構造。
「不愧」が何に依存するのかを介詞句「於心」が示すのだ。


(17)【乃謂亭長曰】
「乃」は、前の内容を受けて、後にどうなるかを示す副詞。
前の内容から当然そうなると思えば「そこで」となるし、予想に反したことになるなら文意から「かえって」ぐらいの関係でつながることになるが、「乃」自体は「そこでどうなるかというと」の意。
その後に「かえって」とか「意外にも」と来るのは文意からであって、語義によるものではあるまい。
ここでは、亭長からのあたたかい申し出を受けたものの、しかしそれはやはり受けるわけにはいかぬという項王の思いがあり、「そこでどうなるかというと」、次のように亭長に言うことになるわけだ。


(18)【吾知公長者】
「吾」は一人称代詞。
牛島徳次は『漢語文法論(古代編)』で、
「『吾』は,史記においては,後述の「我」に比し,やや文語的であり,また,やや尊大な言い方であると思われる。」
とし、
「『吾』はほとんどすべてが,目上の者が目下の者に対し,あるいは同輩同士で用いられるのに対し,『我』はそれらと同じ場合に用いられると同時に,目下の者が目上の者に対して用いている。」
とする。
ここでも亭長は項王の目下にあたる。
これに先立ち、項王は「天之亡我、我何渡為」、「縦江東父兄憐而王我、我何面目見之」と「我」を多用しているが、これらは亭長との関わりなく項王自身のことを言うのに対し、この箇所の「吾」は亭長との関係で述べられた語である。


「知」は、理解するの意。認知を表す「しる」ではない。
明らかな敗走の中、亭長が船を用意してくれいた行為から判断できることを述べているのだ。

「長者」は、もともと年長者を指すが、高貴・富貴の人を指すこともある。
ここではさらに徳のある人を指していう。


(19)【吾騎此馬五歳】
主語「吾」+謂語「騎」+賓語「此馬」+補語「五歳」の構造。
「私はこの馬に五年乗っている」の意。


(20)【所当無敵】
「当」は、「田を質に置いて金を借りる」が原義の字で、それに相当する値の意から「相当する」の意の動詞となったものだが、引申義で「向き合う」「対抗する」の意をもつ。

「所当」は、結構助詞「所」が「当」の対象を表す名詞句を作る構造。
つまり、「当」の対象をソレだとすると、「所当」は、「ソレに当たるソレ」、すなわち「向かう相手」の意になるわけだ。
もちろん「当たる場所」の意ではない。


「所当無敵」は存在文。
存在主語「所当」+謂語「無」+賓語「敵」の構造。
すなわち、「敵」が存在しない範囲が「所当」になり、つまりは「向かう相手に敵がいない」という意味になる。
「当たる所に敵無し」と読めば、わかりやすくなる。


(21)【嘗一日行千里】
「嘗」は、行為や事件が過去にあったことを表す時間副詞。
かつて。~たことがある。


「千里」は(4)で述べた。


この句、構造的には、謂語「行」+補語「千里」で、「一日に千里行ったことがある」であろうが、謂語「行」+賓語「千里」で、「一日に千里の道のりを行ったことがある」とも解せようか。


(22)【不忍殺之】
「忍」は「心にじっと耐え抜く・こらえる」が原義の字。
助動詞「忍」は、通常否定形「不忍」で用いられて「~したくない・~するに耐えられない」という意味を表す。
そのためか、可能の助動詞とされることもあるが、「不能」「不可」「不得」とは意味が異なる。
ここで「忍」は動賓構造「殺之」を賓語にとり、「これを殺すに耐えられない」という意味を表すが、「これを殺すに忍びない」というこなれた日本語の方がよかろう。

「殺之」の「之」は「騅」を指すが、(14)で述べたように、項王自身が五年も乗り、向かうところ敵なく、一日に千里も駆けた「此馬」を受けて、意味を補充する語。
松下大三郎のいう寄生形式名詞である。


(23)【以賜公】
「以此馬賜公」の省略形。
すなわち、介詞句「以(此馬)」+謂語「賜」+賓語「公」の構造。
したがって、「以」は「それを」とでも訳せばよい。
「賜」は授与動詞であるから、依拠性の賓語と他動性の賓語の2つをとる。
したがって「賜公此馬」(公に此の馬を賜ふ)の語順をとるのが基本。
この他動性の賓語「此馬」を介詞の賓語にして「以此馬」の形で謂語「賜」の前に出す(「賜」の状語として前に出す)ことができる。これはその省略形になる。


「賜」については前稿「鴻門の会」語法注解の5の(12)、「公」については7の(6)で述べたので、参照されたい。

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