『史記』「四面楚歌」注解(全)
『史記』「四面楚歌」注解(全)■原文
(1)
項王軍壁垓下、(2)
兵少食尽、(3)
漢軍及諸侯兵囲之数重。(4)
夜聞漢軍四面皆楚歌、(5)
項王乃大驚曰、「(6)
漢皆已得楚乎。(7)
是何楚人之多也。」(8)
項王則夜起、飲帳中。(9)
有美人名虞、常幸従、駿馬名騅、常騎之。(10)
於是項王乃悲歌忼慨、(11)
自為詩曰、「(12)
力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝。(13)
騅不逝兮可奈何、(14)
虞兮虞兮奈若何。」(15)
歌数闋、(16)
美人和之。(17)
項王泣数行下、(18)
左右皆泣、(19)
莫能仰視。■訓読項王の軍垓下(がいか)に壁(へき)し、兵少なく食尽き、漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重なり。夜漢軍四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰はく、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起き、帳中に飲む。美人の名は虞(ぐ)、常に幸せられて従ひ、駿馬(しゆんめ)の名は騅(すい)、常に之に騎(の)る有り。是に於て項王乃ち悲歌忼慨(かうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰はく、「力山を抜き気世を蓋(おほ)ふも、時利あらず騅逝(ゆ)かず。騅逝かず奈何(いかん)すべき、虞や虞や若(なんぢ)を奈何せん。」と。歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和す。項王泣(なみだ)数行(すうかう)下り、左右皆泣き、能(よ)く仰(あふ)ぎ視(み)るもの莫し。■訳項王の軍は垓下に駐屯し、兵は少なく食糧は尽き、漢軍と諸侯の兵が何重にもこれを取り囲んでいた。夜漢軍が四方みな楚の歌を歌うのを聞き、項王はそこではじめて大いに驚いて、「漢はみなすでに楚を得たのか。これはなんと楚の人の多いことだ。」と言った。項王はそこで夜起きて、帳の中で(酒を)飲んだ。(彼には)名は虞といい、常に寵愛されて随う美人がおり、名は騅といい、常にこれに乗っていた駿馬があった。そこで項王は悲しく歌い気持ちが高揚して、自分で詩を作り、「力は山を抜き気力は世を覆ったが、時運に利あらず騅も進まない。騅は進まないがどうすることができよう、虞よ虞よお前をどうしよう。」と言った。数回歌い、美人がこれに和して詩を歌った。項王は涙が幾筋も流れ、左右の者たちは皆泣き、誰も(項王を)仰ぎ見ることはできなかった。■注(1)【項王軍壁垓下】「壁」は、とりで、陣営の意の名詞だが、「垓下」を賓語にとることで動詞のように働いて、陣営を置く、駐屯するの意。
(2)【兵少食尽】主語「兵」+謂語「少」、主語「食」+謂語「尽」の構造の判断文。
すなわち「兵」「食」は、それぞれ主題主語である。
「兵」は、兵士とも兵力ともとれるが、兵力は兵士の数に左右されるので、要するに同じこと。
「食」は食糧。
(3)【漢軍及諸侯兵囲之数重】主語「漢軍及諸侯兵」+謂語「囲」+賓語「之」+補語「数重」の構造。
訓読ではあたかも述語のように「囲むこと数重なり」と読まれるが、「数重」は、謂語または謂語+賓語の後に置かれる修飾成分で、謂語を後置修飾する補語である。
「及」は連詞。
名詞と名詞を連接し、「~と~」という意味を表す。
ここでは「漢軍」と「諸侯兵」を連接するが、重点は「漢軍」にあり、「諸侯とともにするところの漢軍」が本来の義であろう。
「之」は指示代詞。「項王軍」を指す。「数重」は、数詞「数」と量詞「重」からなる。
「数」は大体の数を表す約数、「重」は層をなすものを数える単位。
『史記・高祖本紀』によれば、漢の5年(紀元前202年)、漢の高祖(沛公)は、諸侯の兵と楚軍を攻撃し、垓下で勝負をつけようとした。
淮陰侯韓信は30万の兵を率いてこれに当たり、部下の孔将軍(孔煕)と費将軍(陳賀)が左右に陣し、高祖はその後ろに陣をかまえ、さらに周勃と柴武が高祖の後方に備えた。
これに対して項王の軍は約10万であった。
最初韓信が戦うも利がなく退却、その後、孔将軍と費将軍が兵を放ち楚軍を撃ち、楚軍の不利に乗じて韓信がまた攻めて、大いに垓下で楚軍を破ったという。
これにより、「兵少食尽」という状況が生まれたのである。
(4)【夜聞漢軍四面皆楚歌】謂語「聞」+賓語「漢軍四面皆楚歌」の構造で、主語は後に出てくる「項王」。
賓語はさらに、主語「漢軍」+謂語「楚歌」の構造と考えるが、あるいは主語は「漢軍四面」(漢軍の四方)かも知れぬ。
前者の場合、「四面」(四方で)は「皆」とともに連用修飾語として謂語「楚歌」を修飾するとも見えるし、「四面皆楚歌」は主謂謂語で「四方がみな楚の歌を歌う」とも見える。
「楚歌」は、「楚の歌」という名詞だが、ここでは叙述態となっていて「楚歌する」(楚の歌を歌う)という意味を表す。
日本語でも「これも一つの経験。」などというが、この「経験」は「経験である」の意で、名詞の叙述態だ。
漢文では名詞でありながら、動詞のように叙述する力をもつ場合がある。
たとえば、『論語・顔淵』に見える「君君、臣臣、父父、子子。」(君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり。)も、初めの「君・臣・父・子」は単にそれを表示するだけの名詞の表示態だが、後のは「君である」あるいは「君らしくある」という叙述態になっている。
張大可『史記新注』(華文出版社2000)は、
「漢軍が包囲を縮めたので、その歌声が項羽の陣営に達する。この時、漢軍には楚人が多く、劉邦が楚の地の民歌を歌わせ、それによって項羽の士気を瓦解させるのである。」
と注している。
他に、張良の策、陳平の策、韓信の策、あるいはすでに項王を裏切っていた大司馬周殷によるもの等、日本、中国ともにさまざまに論ぜられているようだが、いずれも想像であり、古籍には言及されていない。
垓下のとりで全体を包み込む歌声ともなれば、自然発生というよりは組織的なものを感じるが、想像の域を出ない。
なお、「楚歌」について、中国メディアである「星島環球網」は、垓下に集結した漢軍兵の出身地がどこであるかを分析することで、「楚歌」がどの地方の歌であったかを明らかにすることができるとし、劉邦(漢王)主力軍、韓信、彭越、劉賈、周殷の各軍の動きと兵士調達、さらには楚軍中心部隊の動きから、「楚歌」が一般にいわれる湖南湖北地方の民歌ではなく、長江、淮河の下流域の民歌であると限定し、いわゆる「楚地」が同領域であると述べている。(「“四面楚歌”是什么地方的歌?」2007.9.8星岛环球网)
(5)【項王乃大驚曰】「乃」は、前の行為や事情を受けて、「そこでどうであるかというと」と後文を導く働きをする副詞。
文意から「はじめて、やっと」などと訳すが、漢軍四面みな楚歌するを聞いて、「そこでどうであるかというと」、はじめて「漢皆已得楚」(漢軍が楚を得てしまったこと)という事態の深刻さに気づいたのである。
(6)【漢皆已得楚乎】「皆」は、範囲副詞。 みな、すべて。
賓語をとる謂語を修飾するとき、たとえば「A皆BC」(A皆CをBす)は、「すべてのAがCをBする」という場合と、「AがすべてのCをBする」という意味を表すことがある。
つまり「主語がみな」なのか、「賓語をみな」なのかということだが、ここでは後者。「楚のすべてを得たのか」ということ。
ちなみに、前者は『論語・顔淵』の「人皆有兄弟。」(人にはみな兄弟がある。)がその例。
「已」は、完了を表す時間副詞。すでに、とっくに。
「乎」は、疑問の語気詞だが、詠嘆の語気もこもっていよう。
「得楚」は、諸本おおむね「楚の土地を占領した」と解する。
『史記・高祖本紀』には「項羽卒聞漢軍之楚歌、以為漢尽得楚地。」(項羽の兵卒は漢軍が楚の歌を歌っているのを聞いて、漢がことごとく楚の地を得たと思った。)とあり、これに基づけばその解釈になる。
しかし聞いた主語が「項王」と「項羽の卒」と異なる上に、「得楚」と「得楚地」は明らかに表現が異なる。
「得楚」とは楚を手に入れる、楚を自分のものにするということであって、「楚の土地を占領する」とは微妙に異なると思うが。
楚を自分のものにするとは、とりもなおさず占領だといえばそれまでだが、項王の驚きはあくまで「得楚乎」であることに注意しておきたい。
(7)【是何楚人之多也】「是」は代詞。四面楚歌を聞いた項王が、把握した状況を代詞「是」で踏まえたもの。
あえて訳せば、「これは、これはまた」ぐらいにあたる。
この「是」を繋辞(いわばbe動詞にあたる)とする説があるが、そうではあるまい。
「是」は、一般に先秦からこの時代、長い主語を代詞「是」で指示し直して同位の主語とする用法が目立つ。
『論語・為政』の「知之為知之、不知為不知、是知也。」(知っていることを知るとし、知らないことを知らないとする、それが知るである。)などがその例。
見かけ上、繋辞の「是」と同じ位置に置かれるのだが、やはり代詞である。
しかし、一方で『史記』には、むしろ繋辞と捉えるべき「是」の例も若干ながら見られ、「襄子曰、此必是予譲也。(刺客列伝)」(襄子が「こいつはきっと予譲であろう。」と言った。)などがその例になる。
これは代詞「此」と「是」が極めて類似した用法の語でありながら、「此」が「是」よりも具体的な指示を示すのに対して、「是」が抽象的な性質をもつことによると牛島徳次は述べている(『漢語文法論(古代編)』1967大修館書店)。
このように『史記』のような古い時代にも「是」が繋辞として用いられる例は見られないわけではないが、頻繁に用いられるようになるのは魏晋以降で、この箇所の「是」も代詞とみなす方がよかろう。
なお、ここの例のように、「是何A之B也」の形をとって「是」が用いられる例は『史記』にはいくつか見られ、「烏有先生曰、是何言之過也。(司馬相如列伝)」(烏有先生は「これはなんとおっしゃることがこんなにも誤っていることよ。)などがある。
「何A之B也」は、固定形式。
疑問、反語、詠嘆で用いられる。
見かけ上この形式をとる場合、大きく二種類に分かれる。
「王何卿之問也。(孟子・万章下)」(王何の卿をか之れ問ふや。→王様はどんな卿のことをお尋ねですか。)や「前世不同教、何古之法。(商君書・更法)」(前世は教へを同じくせず、何の古にか之れ法らん。→前時代は(今とは)政治のあり方が同じではない、どんな昔に則ろうか。いや、どんな昔にも則れない。)などは、「何A」(どんなA)が謂語Bの賓語である。
この「之」は本来、前に置かれた「何A」を「之」が再指示して、「何のA、それをこそ」と強める働きをしており、この働きを復指という。
しかし、古典中国語文法では結構助詞として、賓語の倒置を示す標識と解釈をしており、それに従うが、ことばが単なる標識などということはあり得ないのであって、いかにも合理的な解釈だと思う。
本文「何楚人之多也」はこの形式ではない。
もう一つの形式は、見かけ上、主語Aと謂語Bの関係、または謂語Aと補語Bの関係になる。
つまりこの形式もまた文の成分上二種に分かれるとも言える。
この形式について、まず通説と異説を紹介した上で、私見を述べようと思う。
まず、楚永安の『文言复式虚词』(中国人民大学出版社1986)によるもの、これが通説である。
前者の形式は、「何夫子之娯也。(荘子・秋水)」(何ぞ夫子の娯しむや。→どうして先生はこのように楽しんでおられるのですか。)や、「何太子之遣。(史記・刺客列伝)」(何ぞ太子の遣はすや。→どうして太子がこのように派遣なさるのですか。このような派遣のしかたはなさるべきではありません。)の例のように、「夫子」と「娯」、「太子」と「遣」が主語と謂語の関係になっている。
「何A之B也」で、疑問の意なら「どうしてAがこのようにBするのか。」と訳すことになる。
本文「何楚人之多也」はこの形式に相当し、「楚人」と「多」が主語と謂語の関係になる。
後者の形式は、「大姉、何蔵之深也。(史記・外戚世家)」(大姉、何ぞ蔵るることの深きや。→姉上は、どうしてこのように深く隠れておられるのか。なんとこのように深く隠れておられることよ。)のように、「蔵」と「深」が謂語と補語の関係になり、「深」は「蔵」を後置修飾する。
「何A之B也」で、疑問の場合、「どうしてこのようにBの状態でAするのか。」などと訳すことになる。
これらの形式に用いられる「之」について、楚永安は、
「『之』字は強調したい語の前に用いられて、指示代詞の働きがある。」
と述べている。つまりは代詞の連用化であって、「之」は前者なら謂語、後者なら補語を強調する働きがあり、具体的な現状を指して「このように、こんなにも、そのように」という意味を表しているということになる。
しかし、「之」が「このように」などと状語として用いられる用法というのは極めて特殊なものであって、自然な解釈のしかたではないと感じる。
一方、康瑞琮は『古代漢語語法』(上海古籍出版社2008)において、この形式について、
「古漢語では,これは一つのよく見られる慣用型で,反問を表すために用いる。この中の疑問代詞『何』は文頭に置かれ,文全体の謂語であり,反問する内容を強調するために主語の前に出す。そして『何……之……』型の主語は単詞ではなくて、連語である。『之』は連語の中の一つの助詞である。』
と述べている。
つまり、「何A之B」は「A之B何」の倒置形だというわけだ。
たとえば「何太子之遣。」なら、「太子之遣何。」(太子の遣はすは何ぞ。)の倒置ということになる。
そしてさらに康瑞琮は、
「要するに,『何……之……』型の文中において,疑問代詞『何』は普通その後の連語全体と主謂関係を構成するのであって、ある一つの動詞や形容詞と、状語と中心語の偏正関係を生じるものではない。』
とする。
しかし、「之」の働きについては言及せず、「連語の中の一つの助詞」としか述べていない。
また、もしこの説に従えば、「何A之B也」や「何A之B耶」などの句末の語気詞「也」「耶」がいかにも不自然である。
謂語「何」の倒置だというのなら、「何也A之B」「何耶A之B」という例があってもよさそうなものだが、そのような表現はない。
私見ながら、この「之」は、「之」字の本来の働きで用いられているものと思う。
「之」字が主語と謂語の間に置かれる時、その句は通常名詞句になる。
これを古典中国語文法では、主語と謂語の間に「之」を置くことで、文の独立性を取り消し、名詞句を作ると説明している。
この働きは、そもそも「之」がそれに先行する語と共に、名詞を修飾して、名詞の意義を限定する働きをもつ語であるためであろう。
たとえば「父母」は一般的に父母だが、「民之父母」といえば、父母の中でも民のそれに限定される。
また、「我好桃」は「私は桃を好む」だが、「我之好桃」は桃を好む行為が我のそれに限定されると同時に、「之」が本来名詞を修飾する語であるために、「私が桃を好むこと」という名詞句になるわけだ。
筆者は、「何楚人之多也」などの「之」も同じであると思う。
つまり、「なにゆえの楚人の多さだ」が本来の意味で、それは結局「なぜ楚人が多いのか」という意味になるであろう。
日本語でも「何のお疑いですか」とか「なにゆえのためらいですか」などと言うが、それは「どうして疑うのか」「どうしてためらうのか」の意であって、似たような表現ではないかと思う。
「何夫子之娯也。」なら「なんの・なにゆえの先生のお楽しみです。」、「大姉、何蔵之深也。」なら「姉上、なにゆえの隠遁の深さです。」から、「どうして先生はこのように楽しんでおられるのです。」、「姉上は、どうしてこのように深く隠れておられるです。」という意味を表すことになるのだ。
もちろん、これらは状況によって疑問、反語、詠嘆のいずれかを表すことになる。
結論として、「何A之B(也)」の形は、「なんの・なにゆえのAのBすることだ」あるいは「なんの・なにゆえのAすることのBであることだ」から、「なにゆえAがBするのだ」という意味を表すというのが筆者の見解である。
本文「何楚人之多也」は疑問で訳すことも可能だが、やはり驚きを表して「なんと楚人の多いことだ」と訳す方が自然であろう。
「也」は語気詞。疑問や反語文では「や」と訓読する。
疑問の語気を表すと説かれるが、説明の語気である。
「なぜ~だ」の「だ」ぐらいにあたるといえば語弊があるが、単独で疑問・反語・詠嘆の語気を表すわけではあるまい。
(8)【項王則夜起】「則」は、「そこで」の意。
ただし、「乃」を「そこで」と訳すのとは事情が異なる。
「乃」は前を受け、おおかたの予想に対して、それがどうなるか、どうするかを示すもので、松下大三郎の表現を借りれば、この字自体は「そこでどうなるかというと」という意味を表すものだ。
一方、「則」は法則を原義とする。
「則」を「そこで」と訳すのは、どうなるかというとと示すのではなく、前の内容を受けて、後に続ける働きであって、前の内容を踏まえれば、こうなると法則の働きで示すのだ。
四面楚歌の響きに、漢軍がすでに楚を占領したのだという驚きと実感を背景に、法則として項王は最後の宴を開くべく、夜起きるのである。
(9)【有美人名虞、常幸従、駿馬名騅、常騎之】「美人」と「駿馬」は対になる表現なので、「有美人名虞、常幸従」「有駿馬名騅、常騎之」の2つめの「有」が省略されたものと考える。
いずれも存在の兼語文である。
つまり、前者なら「有美人」(美人がいる)と「美人名虞、常幸従」(美人は名は虞で、常に寵愛されて随う)の2つの文が、兼語「美人」を介して1文化したもの。
一般化すれば、「有AB」で、「Aが存在して、その存在するAがBする」になる。
「BするAがいる・ある」と訳せるが、用いられた状況にあわせて柔軟に訳せばよい。
ここでも構造的には「美人がいて、その美人は名が虞で、常に寵愛されて随う」と、先に「美人」の存在を示され強調してはいるのだが、柔軟に訳して「名は虞といい、常に寵愛されて随う美人がいた」としてもよい。
「(有)駿馬名騅、常騎之」は、「常騎之」の施事主語が「項王」であるために、兼語文の中に含まれないようにも見えるが、「駿馬が存在し、その存在する駿馬は名が騅であり、(その馬は)項王が常にこれに乗った」の構造で、「常騎之」は「駿馬」の主謂謂語ではないかと思う。
なお、今述べたように「常騎之」の施事主語が「項王」であるために、先の「常幸従」も「項王が寵愛して(彼女を)従えた」とも解せそうだが、賓語「之」をとっておらず無理があるかと思う。
中国の訳本各種においても、「幸従」は項王の寵愛を受けて随従するの意に解している。
「名虞」について、『史記集解』に「徐広が、ある本には『姓は虞氏』に作るという。」とあることについて、清の梁玉縄が『史記志疑』で徐広の説を是とした上で、「漢書はすべて史記を踏襲しており、まさに『姓は虞氏』に作っている。」と指摘する。
王叔岷は『史記斠証』(中華書局2007)で「姓を名に作っているのは、下文の『名騅』の字に関わって誤ったものであろう。」とする。
さらに韓兆琦『史記箋証』(江西人民出版社2009)は、王先謙が『漢書補注』で周寿昌の「婦人は夫の姓に従い、自分の姓を名とした、晋の李恒の妻の衛鑠は名を李衛と称し、元の趙孟頫の妻の管道昇は名を趙管と称したが、皆これである。」とする説を引用したものを紹介する。
なお、『漢書補注』引用の周寿昌の説は李恒の妻の前に「後書曹世叔妻班昭字曰恵班。」(後漢書の曹世叔の妻の班昭は字を恵班という。)の文言がある。
韓兆琦が削ったのは、「夫人が夫の姓に従い、自分の姓を名とした」の例として不可解としたからであろう。
「恵」と「曹」の姓に何か関係があるのだろうか、浅学にして筆者もよくわからない。
「幸」は、寵愛する。
ここでは「美人」を主語とみなして「寵愛される」と解しておく。
「駿馬」は、足の速い優れた馬。
後文で項王が「嘗一日行千里」(一日に千里走ったことがある)と述べている。
千里はもちろん約数(大体の数)だが、あえて換算すれば415.8kmである。
「騅」は、『漢書』顔師古の注は、「蒼白色で(黒や茶の)毛をまじえるものを騅という、その色を名としたのであろう。」とする。
いわゆる葦毛の馬のことであろう。
「之」は代詞。
「騅」を指すが、「騎」が「~に乗る」という意の他動詞であるために、必然的に賓語として置かれたもの。
(10)【於是項王乃悲歌忼慨】「於是」は、もともと介詞「於」とその賓語「是」からなる介詞句で、代詞「是」が時を表す場合は「この時」、場所を表す場合は「ここで」という意味を表す。
ところが虚化して連詞となる用法がすでに先秦から生じていた。
ここではその用法。
すなわち文と文を接続して、前後の事情に時間的な前後関係や、因果関係があることを示す。
文脈により、「そこで・したがって」、「そういうわけで・そうであるから」などと訳す。
「於是(主語)乃(謂語)」の形をとることがあり、副詞「乃」は前の内容を受けてその因果関係を表し「そこで」ぐらいの意味になるが、「於是」と訳が重複するので、「そこで~は、そこで…する」などとせず、一度訳せばよかろう。
「悲歌」は、形容詞「悲」が副詞に転じて動詞「歌」を修飾する。
悲しい歌ではなく、悲しげに歌うのだ。
「忼慨」は、「忼」が心が高ぶる、感情が高まり表出する、「慨」はため息をついて嘆くの意の、いずれも動詞。
(11)【自為詩曰】「自」は、副詞。みずから。自分で。
自分自身で動作行為を行う意を表す。
わかりきったことをここで取りあげたのは、同じく「みづかラ」と読んでも、その意味ではないことがあるからだ。
「自」には、「自殺」「自戒」などのように、他動詞を修飾して「自分で自分を」という、あたかも賓語であるかのような意味を表すことがある。
あくまで副詞として謂語を修飾するのだが、「自分を」と訳すこともあるので注意を要する。
(12)【力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝】「兮」は語気詞。
陳述文や感嘆文の文中や文末に用いて、語気のポーズや語気を緩やかにする働きをもつと同時に、感情をこめる働きをする。
日本の民謡にみられる「ハイ」とか「ホイ」に似るが、まさかそう訳すわけにもいかず、通常は訳さない。
「力抜山」は、力は動かぬ山をも引き抜くほどだということ。
山を動かして移すとする解釈もあるが、そうではあるまい。
中国の訳本は概ねそのまま「抜」とする。
ちなみに項羽は『項羽本紀』の初めに「力能扛鼎」(力は鼎を持ち上げることができる)と怪力の持ち主として紹介されている。
「気蓋世」は、気力が世を覆い尽くすほどだということ。
世の人々を圧倒すると解してもよい。
やはり『項羽本紀』の初めに「雖呉中子弟皆已憚籍矣。」(呉中の子弟でさえすでに籍をはばかっていた。)とある。
「時不利」は、時運が味方しないということ。
「時」は時運や巡り合わせをいう。
『史記・管晏列伝』の「知時有利不利也。」(時運に利と不利があることを知っていたからだ。)も同じ意味。
「利」は、順調であるの意の形容詞。
「騅不逝」は、騅は進まない、走らないの意。
「逝く」は日本ではもっぱら死ぬ意味で用いるが、中国でも逝去の意で用いられるほか、過ぎ去るなどの意でも用いられる。
(13)【騅不逝兮可奈何】構造的には、主語「騅不逝」+謂語「可奈何」、つまり「騅が進まないことは、どうすることができよう」。
あるいは、主語「騅」+謂語「不逝」の句と、主語「我」+謂語「可奈何」の句からなる複文、すなわち「騅が進まないが、どうすることができよう」とも解せるが、「騅不逝」を主題主語とみなしてよかろう。
「可」は可能の助動詞。
「奈何」は、「如何」「若何」と同義で、動詞性の疑問を表し、「どうすればよいか」の意。
「何如」「何若」が「何に似るか」(「如・若」は似るの意の動詞)から「どうであるか」という形容詞的な意味を表すのに対し、あえて疑問代詞「何」を倒置させずに本来の賓語の位置に置いた「如何」「若如」は「何に似させるか」から「どうすればよいか」という動詞的な意味を表すのだ。
「奈」は本来果実の名であるが、「如」の義は借用であるとも、また、「奈」と「何」は同義で重複して用いられたものとする説もある。
中国では「奈」ではなく「柰」を用いるが、「奈」は「柰」の異体字である。
用法については、次項に述べる。
この「可奈何」について、吉川幸次郎『項王垓下歌について』(吉川幸次郎全集巻六所収)によれば、
「坊間の本には、この句を『騅ノ逝カザルハ奈何ス可キモ』と読むものがあるが、それは誤りである。」
とある。
騅が進まないのは「どうとでもできるが」と解した読みであろうが、吉川氏の言うとおり、そのような意味は決して表し得ず、「不可奈何」(どうすることもできない)の意の反語である。
(14)【虞兮虞兮奈若何】2つの「虞」は独立語。
他の成分との関係が希薄な成分で、ここでは呼びかけの語。
「若」は「汝」に同じ。二人称代詞で、あなたの意。
「奈若何」は、「如若何」と同義であるが、「奈何」「如何」「若何」は、前項で述べたように、いずれも動詞性の疑問を表す。
たとえば「如何」について述べれば、本来は動詞「如」と疑問代詞「何」からなる固定的な句である。
「Aをどうすればよいか」という意味を表す時、「如A何」と、Aを間にとり、見かけ上特殊形式のような用いられ方をするが、これはなぜかというと、「如A何」が実は双賓文だからだという説がある。
蒲立本『古漢語語法綱要』(孫景涛 訳 語文出版社2006)は、
「“若X何”と“如X何”の意味は“Xに対してどうしなければならないか?Xに対してどうしよう?”である。」
また、
「それらについては、“Xを使役し[Xは何に似る]→“Xを何に似させる”という、使動の意味を理解することが必要である。」
と述べる。
つまり、動詞謂語「如」(どうする)が「A」と「何」の2つの賓語をとり、「Aを何に似させるか」から「Aをどうすればよいか」という意味を表すことになる。
双賓文は、主に人物を表す間接賓語を先にとるのが約束であり、だから結果的に「如A何」のように賓語Aが間に置かれるように見えるのだ。
「若A何」も同じと考えてよい。
「奈A何」の場合、「奈」が「如」に通じるのであれば同様に説明できるが、「何」と同義で重複した用法だとすれば、「Aを奈にし何にせん」(Aをどうしてどうしよう)の意で用いられたものとも考えられようか。
なお、この「奈若何」も反語で、あなたをどうすることもできないという絶望を表す。
(15)【歌数闋】現在主流の語法学では、謂語「歌」+補語「数闋」の構造で、「数闋」が謂語を後置修飾するとする。
すなわち、歌うことが数回なのではなく、「数回歌う」の意。
その解釈に従っておくが、私的には「歌うこと数回であった」で問題なかろうと思う。
「数闋」は、数詞「数」と量詞「闋」からなり、数回の意。
「数」は大体の数を表す約数である。
「闋」は楽曲の演奏を数える単位。
(16)【美人和之】「之」は指示代詞。
項王の垓下歌を指す。
「和」については、『史記正義』が『楚漢春秋』の「漢兵已略地、四方楚歌声。大王意気尽、賤妾何聊生。」(漢の兵はすでに地を攻略し、四方は楚の歌声(に満ちている)。大王が意気尽いた今、私めがなにゆえ生きていられよう。)を引用するが、五言詩の格調が項王の垓下歌に合わず、いかにも後生の偽作が疑われる。
かといって、虞美人が垓下歌を唱和したという解釈もみられるが、自分のことを歌った第四句を唱和するなど状況的にあり得ない。
おそらくは、何か別に歌を作り歌ったものかと思う。
(17)【項王泣数行下】主語「項王」+謂語「泣数行下」の構造で、謂語は主謂謂語になる。
つまり、「項王は」「涙が幾筋も流れる」の意で、謂語は、さらに主語「泣」+謂語「下」の構造をとる。「項王の涙」の意ではあるまい。
「泣」は、日本では「泣く」という動詞で用いるが、古漢語では「涙」という名詞でも用いられる。
「数行」は、幾筋もの意。
「数」は(15)で触れた。
「行」は量詞。行や筋をなすものを数える単位。
(18)【左右皆泣】「左右」は側近。
ここでは、生き残って項王のそばに控える歴戦の勇士であろう。
「皆」は(6)で述べた。
「泣」、ここでは「泣く」という動詞。
(19)【莫能仰視】主語「莫」+謂語「能仰視」の構造。
「莫」は無指の代詞で、いわば英語の「nothig」(存在しないもの)や「nobody」(存在しない人)に相当し、ここは後者。
「なシ」と訓読するが、動詞「無」とは語法的に異なる。
つまり、「莫能仰視」は、「存在しない人が仰ぎ見ることができる」の意で、だから「誰も仰ぎ見ることができない」という意味を表すことになるのだ。
訓読では「能く仰ぎ視るもの莫し」と「もの」を補って読むことが多いが、必ず「~ひとはいない」と訳さなければならないわけではなく、「誰も~しない」と訳しても問題はない。
「能」は、能力的に可能であることを表す助動詞。
圧倒的な力と気力をもった項王が自らを慨嘆し、寵をうける虞美人が和す、その光景に誰もまともに顔を上げることができないのである。
ちなみに「仰ぐ」(あふぐ)は、「アオグ」と読む。
歴史的仮名遣いにおける二重母音の読みの例外になる。
「オーグ」と読むと思い込んでいる人があるが、「葵」(あふひ)などと同じく、「アオ」と読むのだ。
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